それでも、「葬式は、要らない」か...
葬式は、要らない (幻冬舎新書) [ 島田裕巳 ]この本を読んだときには健在だった両親も、とうとう旅立ってしまった。あの頃、葬式や墓についてあれほど悩んでいたのは何だったんだろう、と振り返る今日この頃...この本をはじめいろいろな解説や経験談にも触れ、また自分でもよく考えてそれを迎えたが、結果はやはり事前に自分が考えたようにはいかなかった。死を迎える当人たちはそれを自ら考えようとはしなかったし、私もどうしたものかと日々苦悩しながらそれを迎えるに至ってしまった。そうなると、結局はある程度葬儀屋のペースで進めるしかない。親戚の連中もあれこれ口を出してくるなか、それでも私は葬家として然るべき主張を通し、コンパクトな葬儀にできたのではないかと思っている。初めて葬式を出す側になってみてわかったことがある。それは、“葬式”は当の家族よりも、むしろ親戚一同のためにあるということ。首都圏で最期を迎えたが、私の両親は東北地方山間部の寒村の出だ。豊かな家で育っているわけではなく、また戦中戦後の苦難を経験している世代でもある。そうした環境でともに生活した兄弟姉妹というのは、実のところ子(私)よりも固い心のつながりがあったりする。首都圏で生まれ呑気に育った私には、そういう感覚がわからないところがあった。日本における儀式は、宗教の種類だとか式事の形式はさほど問題ではない。大事なのは“それが行われる”ということなのだ。墓についても、それの是非だとか費用の問題は相対的に重要なことではない。“それがある”ということが大事なのだ。子孫がなく、やがて墓参も行われなくなろうが気にしない。とにかく、残された焼骨をそこに安置する、そして然るべき墓参りをするというその行為自体に意味がある...私には骨(焼骨)に魂があるとは思えないし、墓石を拝むというのもどうもしっくりしない。だから自然葬でよいと思っているのだが、そうした考えはなかなか世間からは理解されない。我々を支配するのは、結局のところ“世間”なのである。そう、世間が、世間の空気が人々の言動を支配する。事の是非、その本質的な部分、理屈などはある意味どうでもいいのだ。日本人にとって大事なのは「皆に合わせる」ということなのである。でも、「こんな葬式は、要らない」という時代は、もうとうに始まっている。