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カテゴリ:水のメモ
TV、映画化もされた浅田次郎 不朽の名作「壬生義士伝」

貧困のため愛する故郷を去り、新撰組に入隊。土方歳三をはじめ齋藤一や沖田総司ら剣客に一目置かれるほどの達人ながら、出稼ぎ浪人と蔑まれ仕送りを続けた質朴な吉村貫一郎の姿が、サラリーマン世代を中心に共感を集めつづけている。

その壬生義士伝上下2巻の最後を締めくくるのは、最大の読ませ所(泣かせどころ)といわれる全漢文で書かれた親友・大野次郎右衛門の手紙だが、いかんせん漢文のため読みにくいとの声もある。

そこで、私なりにできるだけ正確を期して現代語訳してみた。

断って置くが壬生義士伝を最初から読まずして、この手紙の真意は読みとれないだろうし、感情移入もできないだろう。

必ず本を読んでほしい。



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謹啓 寒中の折 御全家御前ますますごお栄えの事のことと 大いに慶ばしく存じます

大坂(蔵屋敷)勤務以来 あまりにもご無沙汰すぎて恐れ入ります

突然手紙でかように大事なお願いを申し上げること この上なく失礼と承知しております

ご無礼を重々承知しておきながらではありますが この件につきましては 拙者一生のお願い事とご理解くださり なにとぞお聞き届け願います

首を垂れ手を合わせお願い奉ります

この度の奥州騒動(秋田戦争)の件につきましては 風聞をお聞きおよびでしょう さぞかしご心配くださっているかと存じます

はなはだ不本意ながら 戦乱の件は(盛岡藩の敗北で)とりあえず落着し ついては拙者は逆賊の首謀者の大罪と裁かれ いま盛岡城下の寺にてご沙汰(斬首処分)を待っている次第でございます

この書状がご尊台(あなた様)のもとに届いた頃には 既にご沙汰が下っているでしょう (ですからこの書状は)拙者の遺書とお心得くださって なになにとぞ ご無理ご無礼を お聞き入れ願いますよう お願い申し上げます

さて この手紙を持参した者 名を佐助と申し 拙家(大野家)に永らく忠勤してきた中間(召使い)でございます

容貌いかめしい大男でございますが この度の戦では常に拙者の馬口(馬引き)を務めた忠義の者ですので どうぞご安心ください 

お願いというのは 寒中佐助に同行し盛岡の国を出てきた少年のことでございます

この者は我が藩の縁故のご子息ではありません むろん 拙者の家系の者でもなく ただ 拙者の組付配下(直属の部下)の足軽の息子でございます

主家縁故のご子息をさておき ましてや 拙者の家系の者もさておき 足軽の息子一人を ご尊家に委ねようとする理由を 残さずお聞き入れください

この者の父 姓名を吉村貫一郎と申す者で 去る鳥羽伏見の戦中 討ち死にいたしました

(この者の父が)文久二壬戌の年(1862年) 盛岡の国を脱藩した時 この者の母は決死の夫が盛岡に帰ることはなかろうと 未だ生まれざる子に (父と)同じ貫一郎の名前を与えました

よってこの者 姓名を吉村貫一郎と申します

ご尊台様に重ねてお願いします この先この者の姓名を変えることないようご配慮ご養育たまわれば幸いの至りでございます

それならば このような大事なお願い(養育の願い)をした上で さらなるご無理(姓名不変の希望)を申し述べる理由を しっかりご説明申し上げます

この者の父は

誠の南部武士にてございます

義士でございます

身分はわずか二駄二人扶持(俸禄:米14俵に相当)の小身(下級武士)なれど その人格は質朴(偉ぶらない)誠実 高邁(志高い)潔癖にして賤しいところがなく まさに本邦(日本)の武士道の鑑(かがみ)でございます

天保五年甲午の年(1834年) 盛岡城下の上田組丁同心屋敷に生まれ それ以来 日々怠ることなく勉学に勤しみ 撃剣に励み ついには 藩校講学の助教(教官)兼剣術教授方の大任を務めるまでになりました

その学識 技量 藩士の中でも抜群でしたので (本来であれば)立身出世につきましては しかるべき処遇にあるべきですが なにぶん足軽という小身の生まれでございますので 昇格は叶わず さらに藩政が窮迫していた時期のため お役目料などの御代物(報酬)を 特別に給することもできず ただ (父祖)代々受け取ってきたわずかな禄(二駄二人扶持)のみで妻子を養っておりました

それでも 生まれついての質実で身のほどをわきまえ あえて富貴を欲せず 道を良く知り 貧賤をいやがることなく 同輩の窮状を思いやり 拙者をはじめ 上司の情けにも頼らず 赤貧を洗う窮迫切実の日々をすごしておりました

重ねて申し上げます

この者の父は

誠の南部武士にてございます

義士でございます

天保の年以来 百姓領民が(不作で)飢え 空腹のあまり眠れぬという惨状を察し この者の父は 己一人の栄達(出世)を潔しとせず 仁慈(思いやり)の衷情(誠意)をもって貧しい身の上に甘んじておりました

よくよく思慮するに 学識や技術の卓越というものは ひとえに各人の努力精進のたまものであるのに その質力(実力)を評価できなかった事は 組頭としての拙者の不徳のいたすところでございます 面目ありません

拙者は

盛岡藩の勘定方差配(経理責任者)のお役目を与えられ 多年にわたり奮励努力いたしましたが このように 藩の財政を回復できず 百姓領民の苦渋を救済することもできず 藩士の生計(の救済は)言うに及ばず ついに 吉村をはじめ有能の士をして 脱藩の挙におよばせました 多くの罪わざわいはすべて 勘定方たる拙者ただ一人にあります

ですから拙者は 不倶戴天の賊(決して許されざる罪人)であります

(しかし)天朝のご沙汰をお待ち申し上げる身なれど 錦旗に弓を引いたことについては いささかも悔悛(後悔反省)の念などなく ただただ(藩財を立て直す勘定方として)お役目の至らなかったことだけが 万死に値する大罪と存じております

むろん近々斬首の土壇場に臨んだ際には

拙者は

非力のため 窮状を救うことができなかった百姓領民足軽同輩諸士に向かい 心よりお詫び申し上げます

そもそも 拙家は代々四百石もの大録を賜り 組付の足軽三十人余をあずかる身であったにもかかわらず ひたすら藩政の安泰に粉骨しお殿様とその家名の安寧にのみ奔走してきたことが 大きな間違いでございました

畏れ多くもこのたびご公儀(徳川)と幕閣のご失態の原因は 拙者の間違いと同様 百姓領民足軽郎党の苦難をみじんも斟酌することなく 長年幕府の安泰と家名こそが大事と執心してきたことにあると拝察いたします

このような事が すなわち 忠義であるはずがなく ただ単に各々の保身にすぎません

愚なことに拙者も

忠義の言葉をかりながら知らぬうちに保身を計ってきたのです

ですから幕府が転覆したのも 公方(徳川)様ご災難の顛末も ことごとく天誅と存じます 私の四百石の俸禄は民の脂汗 徳川様の八百万石もまた民の汗 民の血にてございます 昔からこれ(民の苦労)により 武士は武士たる長年の優位を保ち続いてきたのであります
言うまでもなく士農工商の分別など笑止千万の勝手な理屈でしたので 早速天誅が下り 武士同士が相撃つところとなりました

つまり 黒船来航以来 攘夷論が 世の中をおおった(武士の世が終わった)という経緯は 全部幻影にございます (真実は)徳川幕府成立以来二百六十余年 各家門が世襲の代を重ね 士道がうしなわれ (武士は)保身しか考えない獣の群れとなり果てた(滅びた)のです

しかしながら 蛮勇で無能の獣の中ただ一人 赫々たる(立派で本物の)武士の鑑がここに有りました

重ねてお願い奉ります

この者いまだ少年ではございますが この者の父は 誠の南部武士にてございます

義士でございます

拙者が

ご家老の楢山佐渡様をはじめ御重臣の方々に意見し 天朝に刃向かって戦乱を起こすに及んだ理由は ただこの一つの思いにあります

この者の父吉村は 身命をおしまず妻と子供のために戦いました その行いを軽率な輩の賤しい行いだと言い下す者が 多々いましたが 拙者よくよく思いを巡らしたところ その行いは まさに男子の本懐 士道の精華と思い至った次第です

よって拙者は

吉村貫一郎の士魂を 南部一国と 取り替え申しました
妄挙(無分別)だ狂気の沙汰だという 非難は十分覚悟の上でございます

しかしながら この後予定どおり 御一新がめでたく成功し 統一された皇国が確立されすべての段取りがうまくいったとしても 万一 一兵が妻子をかえりみず滅私奉国すること これをもって義となすような世の中になれば かならずや 国破れ 異国の奴隷となり果てるであろうと拙者は固く信じております

わが国日本人は 古来より義をもって至上の徳目としてきました しかしながら 先人が意図をもって 義の一字を盗み意味をすり替え 義道とは忠義のことであるであると定めました 愚かなことです かくのごとき詭弁(人心を惑わす弁)こそが天下のあやまりでございます
義の本領は正義に他なりません 人の道の正義をこそ(義と)いうのでございます

義がひとたび失われれば かならずや 人の心は荒れ果て 文化文明がいかに興隆しようと関係なく 国があやうくなることでしょう 人の道の正義を道をかえりみずして 何の繁栄や幸福がありましょうか

日本男児が 身命を惜しまず妻子のために尽くすことは 断じて賤しいことではなく 断じて義の行いであると存じます

よって拙者は

後世の万民のためと思い定めそしてそう信じて

母国南部 父祖の地盛岡 郷土の山河 ことごとく
お殿様をはじめご家門の方々 ご朋輩 郷友の皆々様
むろん拙者の一族の者の命も ご一新の皇国に捧げました

さいわい城下の焼失はのがれましたが この後お国替え減封の罪状をまぬがれないでしょう また 幸い死を逃れたとしても 皆々様が賊の汚名を着せられ 辛酸を嘗めるであろうことは必定でしょう

しかしながら 南部士魂の一滴が 苦難の後に残ったならば その一滴は 北上の大河となり ご一新の皇国を 必ずや正道に導くことでしょう

吉村貫一郎が常々申していたことがあります

南部の桜は岩を割って咲くと

(拙者は)その一言に感銘し 非力ながらこれまで実力以上の精進をなすことができたのです

(今までの人生を)省みてこのような結果となったこと 力の及ばざるところではありますが 私個人の努力精進という点においては一片の後悔もありません 岩を割って開花する春は来たらずといえども ここまで死力を尽くした事は 士道の冥利と存じています

畏友(尊敬する友)である吉村貫一郎君の最後は 誠に見事でありました

死に臨んで五体をことごとく妻子に捧げ尽くしたその亡骸(なきがら)には 血の一滴すら残っておらず わずかに死顔に 涙がひとすじあるのみでした

何度言っても言い尽くすことはできません

この者の父は

誠の南部武士にてございます

義士でございます

どうか心よりお願い致します ご尊台 この少年をお膝元に留めおき給わりご配慮ご養育くださいませ

平伏し手を合わせ 心より お願い奉ります

義士の血脈が いつの日にか岩を砕き 枝もたわわに開花することを 夢幻の中で慶賀して

これにて筆を置かせていただきます


       恐惶謹言(敬い申し上げます)

明治二年己巳二月八日

       大野次郎右衛門 拝

江藤彦左衛門殿
  御侍史

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〔追記〕
江戸幕末の一俵は現代の価値で5~7万円。吉村貫一郎の二駄二人扶持(14俵)は、年収100万円未満の給与ということになる。しかも、この頃の盛岡藩はほぼ隔年で無収穫という悲惨な有様であった。





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最終更新日  2020/05/24 01:45:01 AM
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