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カテゴリ:ニュース
山口母子殺害事件の最高裁審理差戻しや安田弁護士ら21人の大弁誤団と被告人・福田孝行の裁判での様子については、他ブログに詳しいので譲るとして、被告人・福田孝行がここにきて反省の手紙を遺族・本村洋氏に送りはじめたという事象が興味深い。

実は、本村洋氏は福田孝行のこの行動を7年前の事件発生直後に予言していたのである。


福田孝行は犯行当時未成年であったことから、せいぜい7~8年で出所できると信じていた。


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福田孝行が知人に宛てた手紙

「五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし」



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よもや検察が法の善良を信じて一審、二審の無期懲役を不服として、最高裁まで粘るとは思っていなかったらしい。


しかし、本村洋氏は最初から違った。

彼は報道番組「ニュースステーション」でこう切り出した。

「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺します」

これは、ただの復讐予告ではなかった。

さらに彼はこう続けたのだ。

「死刑を廃止してはいけません。


死刑の意味は、殺人を犯した人間が、自らの罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が冷たく奪い去ることです。

その非業さと残酷さを思い知ることで、命は等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、だから死刑が存在する意義があると思うのです。」



私の記憶と他ブログ参照の言葉なので、一字一句正確でないのが残念だが、彼はたしかにこういう内容のことを言ったのだ。


そして、本村洋氏のこの発言の通り、被告人・福田孝行は一・二審とも一貫して犯行を認めつつ上記のような手紙をのうのうと書いていた。

本村は死刑の意味を公共の福祉(社会)に求めたが、当の本人が人の命の重さと尊さを自覚していなかったのだ。


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福田孝行が知人に宛てた手紙

「犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま『やっちゃった』、・・・これは罪でしょうか」

「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」



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そして、最高裁審理差戻し・・・すなわち、過去の判例では実質的な死刑判決予告に至って、はじめて罪を悔いる努力をはじめた。

「本村さんの心情や意見を知りたい」と、それまで読んでもいなかった死刑を求める本村さんの公判調書を読み、さらには本村洋氏のインタビューが載った雑誌や新聞の差し入れまで求めはじめた。

そして、本村氏へ反省の手紙を送りはじめた。

ついに、福田孝行は「罪は重く極刑以外ないが生きたい。悪人のまま終わりたくない」とまで言った。


法学を知った今、本村洋氏の死刑存置論、その内容に改めて驚かされる。

死刑制度なくして、福田孝行がここまで積極的な反省ができたであろうか。

福田孝行自らの「極刑以外にない」「生きたい」という言葉は、間違いなく死刑制度が存置してこその発言だ。


哀しいかな、彼のように自分の命の危険を感じなければ、他人の命の尊厳を知ることができない人間がいるということだ。



そもそも、日本の司法で死刑が保持される理由はたった2つである

・憲法で人権制限が認められていること

・司法が死刑を違憲でないと認めていること

後者は言うまでもなく1948年、最高裁が「死刑は(憲法で禁じられる)残虐な刑にあたらない」としたこと、そして60年を経た今日もすべての裁判でその判断が堅持されていることである。

この二本柱のどちらかが崩れることがなければ、日本の司法では死刑が維持されるであろう。


では、その司法が拠り所とする「法」において、今後も死刑が維持されるかどうか?

これは世論が、日本国民が決めることである。


国家による究極の人権制限行為「死刑」の合理性を日本国民がどう納得するか。

これが、死刑存置論と死刑廃止論の分岐点である。


確かに、死刑の存置理由を予防効果(一次予防、特別予防)に求めるのは非合理ではない。

しかし、これのみで日本国民は諸外国と同様「法」を維持しないであろう。


むしろ、刑罰に矯正効果のみを求めているわけではない。
被告人が犯した罪に相当する罰を与える罪刑の均衡感


すなわち、バランス感覚こそが日本における死刑存置論の大きな拠り所だと思われる。


なれば、死刑存置論という「合理的な生命剥奪」を罪と天秤にかける錘(おもり)としてあえて維持するのはなぜか?

それは、日本国民が、人の命と天秤にかける錘を持たないからであろう。

日本国民のバランス感覚は特定宗教にも揺るがず、社民党・福島党首や国民新党・亀井党首らのようなトップ政治家のプロパガンダにも惑わされない。


死刑制度を無くした国=道徳的な国家だというわけではないことを知っているから詭弁に惑わされない。


死刑を実質的に無くすのは簡単である。
死刑廃止法案を国民の代表たる議会で通過させるのも簡単である。

事故でも誤りでもないほど故意に満ち、かつ同情の余地もない残虐で自己中心的な程の凶悪犯罪を思いとどまればよいだけだ。

そうでない犯罪では懲役刑にしかならない。

事実、死刑相当犯罪は毎年千数百件の殺人事件のうち、たった数例しかないきわめて特殊な犯罪である。


絶妙のバランス感覚を持った日本国民・本村洋氏は、死刑の意味は「悔悛までした犯罪者が命を奪われること」だと言い切った。

福田孝行がこの後悔悛し、たとえ死刑を言い渡されたとしても、後の生涯を見事に生ききって、ロープを首にかけられたとしたら。

その時に、すでに福田孝行を赦していた国民は、「善人の死刑」という違和感覚の狭間で、ようやく被害者である母親と少女の命の重みを思い出すだろう。

そして、社会秩序の堅牢さを痛感するとともに、自分たちがそういう社会で生きる存在であることをどんな道徳教育よりも優れて教えられるだろう。



はたして7年前、若干23才の若者であった本村洋氏の予言は的中した。

死刑制度は、25才の福田孝行に命の尊さを実感させた。
もし、悔悛し善人となった福田孝行の死刑が執行されれば、日本中に命の尊さを思い知らせるだろう。

なぜなら、死刑制度がある日本で凶悪犯罪を犯した"悪人の"福田孝行は、被害者二人と"善人の"福田孝行の三人もの尊い人命を奪った、と理解するしかないからだ。


そうすれば、日本国民はゆめゆめ「懲役150年」が人命と釣り合える刑罰だと思いこむような愚行(愚考)に及ばないだろう。


最も人命を尊重する国家が、死刑制度を堅持している事実をもって、テロや戦争に走る世界中に命の尊さを訴え続けるだろう。


改めて、人が人を殺さない善良を信じて、そして人が人を殺さない日が来るために、我々は死刑という制度を維持しているという面に気付かされた。

それを大学新卒と同じ23才で、過酷極まりない精神状況の中で、時にバッシングの対象となりながらも毅然と指摘した人間がいた。


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福田孝行が知人に宛てた手紙

「 被害者さん(本村洋氏)のことですやろ?知ってます。
ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。
・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし」



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本村洋、恐るべし。



罪を忘れて刑を語ることなかれ・・・

死刑の理由死刑の理由 (井上薫・新潮文庫)

1984年から1995年までの12年間に、最高裁の判決で死刑が確定した全43件について、「死刑の理由」が述べられている。
なぜ裁判所は死刑という判決を下したのか。似たような事件では無期懲役だったのに。死刑と無期懲役の境界線はどこなのか。死刑を考える上で、なぜ裁判所が死刑という判決を下したかを知る必要がある。でなければ、死刑という制度について議論を進めることは難しいだろう。
この本は、あくまで資料である。しかし、死刑を考える上で、必読の資料である。どのような「罪状」で死刑になったのか。裁判所はどのような判断を下したのか。ただ新聞記事で「死刑」という結果を見るだけではなく、その過程を知るためにも重要な一冊である。





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最終更新日  2008/04/23 09:55:01 PM
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