カテゴリ:テーマはこころ
ビジネスをやっていると、 ビジネスの世界のスピードとか、価値観と 自分のもっているスピードとか、価値観のずれを感じます。 そのギャップにつらくなった時っていうのは 実はそれが滑稽な状態にまではまり込んでいる、と言えるのかも知れません。 ゆったり進むことの方が大事、と こころの内側がいう人たちにとって(それは僕自身でもあります) 早く進むことが苦痛でしかなくなることがあります。 しかし、ビジネスではスピードや量が大切なんだ、ということになると、 生き方そのものが噛み合わなくなってくる。 しかし、それでも努力をし続ける選択をする時、 その結果が自分の限界を広げて、 経済的にも心理的にも許容量を広げていくことにもなりえると同時に、 今の自分がもっている「バランスの取れた状態」 というのを敢えて壊して、不安定な状態に入っていく、 ということも自覚していないといけない。 その不安定さに耐えられるような心構えや準備ができていないと、 なぜ、ビジネスをしていて辛くなるのか、分からなくて、 ビジネスそのものを否定したり、自分の弱さを責めたりしてしまう。。。 そんな時は、不安定さに入ることにした意味とその対処法が分からなくなっている。 そもそも、不安定さの中に飛び込むんだ、という自覚がなければならない。 その状況把握がないと、 折角世界を広げるために自分の世界から飛び出ていったのに、 文句を言ったり、泣き言を言ったりして元の木阿弥になってしまう。 さらに、その状態がこじれると、どのようなことになるか・・・ 滑稽なまでの状況になります。 自分が本来ゆったりしたペースを望んでいる、ということを忘れている。 自分は前に進まなければならない、と思っている なんとしてもこの方法で稼がなければならない、それ以外の方法はない、と思っている 私の幸せはこの先にしかない、と思っている この方法でできなければ、何をやってもダメになる、と思っている この流れを滑稽である、と思っていただきたいので、 二つ例を挙げます。 あなたは北国に住んでいる農家です。 北国の作物が全滅なので、いい農作物を探しています。 パイナップルとゴーヤが南国で売れているというので、 北国で作ることにしました。 それぐらい、滑稽です。 最近目がよく見えなくなったので、眼科に行きました。 眼科の先生が 「このめがねはよく見えるよ、君も使うといい」 とその先生がしているめがねをくれました。 あなたは不承不承、そのめがねをすることにしました。 それぐらい、滑稽です。 悩みというのはそのほとんどが、漫才のボケみたいな状態です。 シンプルな勘違いを深刻に受け止める。コレはボケの真髄の一つです。 悩みをこのようにリフレーム(違う枠組みで理解し、違う意味を発見する)すると、 楽になります。 僕自身が、とてもゆったりとしたペースで生きたい人間なのに、 「頑張ってああして、こうすると、幸せを感じられるようになるよ」 と言われると、 それが今の自分の生き方にあっていないのに、 そして、今の生き方かと、本来望む生き方からかけ離れすぎているのに それを金科玉条のように拝み奉ってしまう・・・ これには僕自身の心の寂しさや、不安、確実な対象を求める心、 安心感を得たいという願望、自分の存在の仕方の足元のおぼつかなさ そのようなグラグラした不安とか、不安定さ、というものが、 しっかり、どっしりと屹立した対象にすがりつきたい気持ちを起こさせます。 すると、人間はやはり、動物的な本能として、 身の安全と心の安心を求めますから、なりふり構わず、 (たとえそれが、北海道の農家にとってのパイナップルとゴーヤであっても) 飛びついてしまいます。 ここに不幸の始まりがあり、 かつ、その不幸の始まりを、漫才のボケと同じだと思えず、笑えないゆとりのなさこそが その人の心の不幸の始まりなのだ、と自覚できないから、 いつまでたっても、笑えないし、 心身が痛くて仕方がなくなるような辛い修行にはめ込まれてしまうような 犠牲者意識のような、被害妄想のようなものすらでてくる。 ここで、ある人は、攻撃されたと感じて人を責める またある人は、自分が悪いと思って自分を責める。 本来そのどちらでもなく、 ただ単に、自分の不安定さを自分で耐え切れない自分というものがいて、 それを支えようと他を当ってみたけれど、効果が芳しくなく、 もっと徹底的にやってみようと思ったら、ドツボに嵌って、 自分に最も合わない無理無茶な生き方をしていた・・・ しかもそういう流れを自分で選んできたことに気がつけないと、 自分か他人か、ノウハウなどの知識かを責めることになる。 なぜ、自分は楽な生き方ができないのか? そう思う人も多いでしょう。 楽な生き方ができるようになるには、 それは、自分が楽な生き方ができなくなるような、家族の中で育ったから、と想像し、 そして、実際そうであったことを認めることから始まります。 人は家族の中で生きるすべを知らず知らず身につけますが、 その時、本来の自分のペースややり方と合わないものが 植えつけられる場合があります。 そうなったら子供は不幸です。 心配性で、気に掛けすぎる期待の大きい親の元で育つ子供は 喘息になりやすいです、僕もそうでした。 本来、好奇心のままに放っておいた方が 僕にとってはよかったはずです。 そういう僕の個性を理解しない親を選んで生まれてきたのだけれど、 その状況(逆境)を通して、 自分の遺伝子が持っている「自分らしさ」を発揮していく修行みたいな遊びをするように 人生というのは仕組まれている(らしい) 子供のときは、無自覚に親の期待に応えようと 自分の気持ち、言いたいことを抑えてきたから、喘息になった。 喘息は自己免疫疾患といって、自分の免疫系が自分を攻撃する病気です。 自分の気持ちを攻撃して殺そうとするわけです。 また喘息は、息を吸う方は吸いやすいのですが、吐く方が苦しい。 つまり、自分の言いたいことが言えず、親の言うことを 必死に吸い込もうとするわけです。 魂のあり方がそのまま身体に症状としてでるんです。 子供の頃は、無自覚に喘息という反応をして、 自分の本来持っているもの ---自分の言いたいことを言う、自分の好奇心の通りに動く--- を表現しようと、魂が必死だったわけです。 しかし、その無自覚さの中には、 自分の本心の表現を我慢する、という無自覚な選択もあって、 それが、何十年もして大人になっても、生き方に影響し続ける。 無自覚な選択だから、コントロールが及ばない。 なぜだかそうなっちゃう。 どうなるかというと、 自分の本心に行きつく前に、自分を殺し、他を受け入れようとする。 自分が心地よいと感じる生き方を素直に表現するよりも、 ビジネスの世界でよいとされるものを取り込もうとする。 この場合の具体例は僕のものだけれど、 ノウハウやコンサルティングにお金を払っても上手くいかない人というのは 全て、 「自分の本心を知らない人」かも知れない。 上手くいっている人は、自分がどう感じたら心地よいか知っているから、 それに対応してくれる人を見つけて、心から満足していける。 けれど、自分の本心を隠してしまったり、殺してしまうことを常とする 家族で育ってくると、 (なぜ隠したり、殺したりするかというと、親に合わせ、愛されることが生きる方法だから。 そういう意味では、言うこと聞かん坊の方が健康) 自分の本心に無自覚だから、 自分が本当に感じたいことでない、「何か」を満たそうとしてしまう。 しかも、無自覚に。 その無自覚さに気がつけると、いい。 その無自覚さに気がつけると、はっきりいって大変です。 受け入れるのが難しい。 自分に何もない気がしてくる。 自分が放り出された幼児のような、恐怖や不安に満ちた存在に思えてくる。 だから、近くにあるものにしがみつこうとする。 むかし、親にしがみついてしまって、現在のような自分がいるわけだから、 (曲がりなりにも育ててくれた親には感謝しつつ) 今も何かにしがみつこうとしてしまっていないか? それは、過去を繰り返すことになるだけのものではないか? この不安定さに一人で耐えて、味わってみて、 その奥にある自分本心に、自分はこうしたい!!という本心に 気づくことはできないだろうか? そして、その本心に従って、動き始めることはできないだろうか? その本心を理解してサポートしてくれる人は誰だろうか、と探せないだろうか? このように、裸で自分の本心に従っていく、というのは できる人には、当たり前にできることで、 コレを読んでも、 「そんなに難しく考えることじゃないんじゃない??」 という人もいると思う。 しかし、自分の本心に無自覚になっている人にとっては、 このステップは恐怖に満ちたステップでもあります。 しかし、恐怖というのは実は好奇心や喜びの裏返しだ、 ということに気がつけるといいのですが・・・ 長くなりました。 個人的なことも含め、かなりこころの局所的なお話でした。 コメント歓迎いたします。 セレナくんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2005年09月02日 10時35分35秒
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