黒髪山の大蛇退治
黒髪山の雄岩・雌岩久寿元年(1154年)黒髪山の麓の白川の池(現在の有田ダム)に七叉の角を持つ大蛇が棲みついていた。天童岩 大蛇は黒髪山のこの巨大な岩に七周り半巻きついたと言われている。住吉城 後藤家の居城 築城年不明 1599年に焼失し廃城 現在土壕が残っている。大蛇は村に下りては村人を襲ったり田畑や神社を荒らし甚大な被害が出ていて、困った村人は窮状をその地を治める殿様(後藤家)に大蛇退治をお願いした。殿様は弓の名手鎮西八郎為朝と共に兵を率いて黒髪山に向かいましたが、大蛇は一向に姿を現しません。兵を引くと大蛇は姿を現し、度々村を襲いました。兵を一旦引いた殿様は評定をひらき、大蛇退治の策を練りました。やまたのおろちの故事にならい美しい姫をおとりに大蛇をおびき寄せ退治する策を立てました。(評定所:現在の有田ダム周辺)早速、「申し出た者には褒美は思いのまま」と、おとりとなる女性を募るお触れを出したのですが、大蛇をおびき出すためのおとりでは命も無く、応じる女性はなかなか現れませんでした。このお触れの事を聞いた、高瀬(武雄市川登)という山里に病気の母と弟の三人で暮らす貧しい武士の家の娘、万寿(まんじゅ)が、貧しい家を救うためにおとりになる事を申し出ました。殿様は喜び、「娘の身で母や弟、家のため、また、困っている里人たちのために、命を捨てようとする勇気は立派である。」と万寿の願いは聞き入れられました。 そこで、万寿をおとりにして大蛇をおびき出すため、白川の池のほとりに桟敷をつくり、美しく着飾らせた万寿をすわらせて、大蛇が現れるのを六千人の兵とともに待ち受けました。すると白川の池から大蛇が現われました。このとき少しも慌てずに殿様が矢を放ち、これが見事に大蛇の眉間に立ちました。驚き怒った大蛇がおとりの万寿を呑み込もうとした瞬間、為朝は八人張りの強弓に大雁股の矢を番え、大蛇の背に向けて矢を射ました。眉間と背に矢を受けた大蛇は、たまらず逃げ出しました。これを待ち受けていた六千人の兵が次々に矢を射掛け、大蛇はついに谷底へ落ちていきました。そこを通りかかった梅野の座頭が懐刀で大蛇の喉首を斬ってとどめをさして、ついに大蛇は息絶えました。大蛇がいなくなり、とても暮らしやすくなったのでこの地を住吉村と改めたそうです。大蛇退治を終えた殿様は、万寿にたくさんの褒美を与え、弟小太郎には名を松尾禅正之助吉春と改めて家を継ぐことを許し、高瀬の村を領地として与えました。そして、有田の里では村を挙げてのお祝いの酒宴をひらきました。このときにお酒を供しましたが、酒樽を据え付けた所が「大樽(おおだる)」「中樽(なかだる)」等の地名として残っています。「戸矢(とや)」という地名も、兵が射た矢が大蛇の鱗に当たってはね返り、麓の民家の戸板に刺さったところからついたそうです。今も万寿を奉る松尾神社は現存し、黒髪山の麓の黒髪神社では大蛇退治を祝って流鏑馬が奉納されています。牛津・牛尾山・駒鳴峠・住吉・犬走・小越・幕頭・大樽・中樽・小樽は大蛇伝説にちなんだ地名だそうです。今も現存する地名・実在した人名・・。知るほどにこの伝説は本当の話だったような気がしてなりません。母と私に勉強を教えて頂いた恩師・後藤先生は殿様の一族ですし・・。実際の物語の舞台になった黒髪山に行くと、中世の史跡がほぼそのまま沢山残っていて、興味は尽きません。