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席亭の囲碁日記

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2006/10/12
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カテゴリ:雑件
 今日は囲碁とはまったく関係ない話。

 最近(おそらくここ十年くらいの現象)、スポーツ選手がよく「ファンの皆さんに感動を与えるようなプレイをしたい」ということを発言する。

 これが全く意味が分らない。
 感動させようと思えば感動させられるものではないだろう。自分を主語にして「~を感動させる」という表現を使うのは、かなり思い上がった表現にも感じる。


 ある時期まで、この現象は「スポーツの商業化」の影響だと分析していた。
 お客さんに見せて金を稼ぐ職業スポーツマンと、W杯、五輪などイベントごとに「感動」を約束する視聴率狙いのテレビ局の予定調和が「感動させる」現象を生み出しているのだと。それなりに説得力はあるでしょ?

 
 まあそれはそれ。


 しかし最近になって甲子園に出場する高校球児なども「ファンの皆さんを感動させるようにがんばりたい」など言うようになって、ここまで来たかと改めて愕然とする。そもそも高校球児が「ファンの皆さん」を意識している時点で、おかしな世の中だ。

 気がつけば、私の大好きな早稲田ラグビー部の選手までもが「ファンのために」「感動を与えるプレイを」などと言い出していて、個人的にはおかんむり。
 早稲田ラグビーは、秩父宮ラグビー場に通い詰めたほど大好きでそれこそ「感動した」が、そういう発言をする選手がするプレイはたいてい感動できないことが多い。

 
 囲碁でもスポーツでも、基本的には勝利を目指して自分のベストを尽くすだけのことであり、それを非常に高いレベルで実践しえたときにはじめて人を感動させうる。当たり前のことだと思うのだが、もはや当たり前ではないのかもしれない。 
 





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最終更新日  2006/10/12 11:40:40 PM
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