【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

フリーページ

コメント新着

 蕩尽伝説@ Re:切腹 面倒だから全員切腹したまい。
 faust@ re: 波多陽区に斬ってもらいましょうか?
 sakana@ Re[1]:へへーっ!そうなんだあ。(10/21) >脳の器質障害が原因なら、このように治…
 sakana@ 自己レスですみません ニキリンコさんが「喉が渇いた」という感…
 sakana@ こんにちは この方の場合、「自分にも背中があること…
2003年05月19日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

松岡正剛『千夜千冊』でホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の紹介があ
り、以前ちょこっとカイヨワの遊び論の翻訳をやったことがある手前、
この本もいちおう読んだつもりでいたんだが、ぜんぜん読めていなか
ったことが判明した。こんなこと書いてあったか。飛ばし読みしちゃ
ったかなあ。

とりわけ、あっと膝を打ったのが、遊びが笑いと結びついているとい
う指摘である。なるほど笑いと無縁の遊びなぞ存在しない。言われて
みれば当たり前のことなんだが、なんだか頭のなかの最後のピースが
収まるべきところに収まった感がある。そうだよ、遊びだよ、笑いに
欠かせないのは! 逆もまた真である。

そうした遊びと笑いの空間だが、それが「クラブ性」に根ざしている
と松岡は読む。ようするに場所的に限定されているということで、む
ろんホイジンガ自身がこうした言いかたをしているわけではないが、
こう見たほうがその意図は伝わりやすい。

さらに松岡が説くのが、こうした遊戯と哄笑が時間的には幼年時代の
身体感覚と結びついていることで、これは歴史的な限定だ。じつはベ
ルクソンが、そしてフロイトがこのことを強調している。ベルクソン
『笑い』は、笑いと遊びが深く結びついていて、それが幼年期の記憶
に根ざしていることをちゃんと指摘していたのだが、この指摘の意味
を私はこれまで見過ごしていた。考えてみると、フロイトはベルクソ
ンのこの個所を自著でわざわざ引用までしていたのだった。

しかし、そのときの「幼年期」というのがくせものだ。それはいわば
「原風景」であり、その実在性を括弧入れしたのがフロイトの理論家
としての老練なところである。つまり私たちが幼年期と信じているも
のもまた「構成」されたものではないかとフロイトは考えている。な
らばそれは何によって、いかなる仕組みで構成されるのか――松岡の
用語を用いるなら「編集」されるのか? いいかえれば、文化を編集
しているのはいったい誰か?

まさにここにこそ松岡・編集工学への苛酷な試練があるはずなのだが、
薄々その危険を察知してのことだろう、松岡はフロイトに深入りする
のを拒んでいる。つまり無意識と超自我によるその検閲の理論に足を
踏み入れることなく、そして、そうした抽象的な議論に拘泥すること
なく、なるべく具体的な日本文化論というかたちで日本文化の無意識
の構造を解き明かそうとしている。

はたしてそれが可能か。それが普遍的な説得力を持ちうるか。そうし
た問題にかんしては、きわめて不十分ながら以前にもここで少し触れ
たことがある。私としては懐疑的なのだが。それにまあ、そもそも、
こちとら育ちが悪いもんで、雅なものにさっぱり関心が持てない(笑)

文化の根源に迫ること、それはたんに個人や民族の幼年期に回帰する
にとどまらず(ハイデガーの場合はそれがギリシャだったが)、もっ
と広く生命の起源を問うことになるだろう。ベルクソン『創造的進化』
は最も早いそうした試みの1つだったと言えよう。私たちはその意味
をいまだ十分に把握しえていない。

おそらくは遊戯と哄笑の渦のなかから生命は生まれてきた。文化はそ
の想起しえない起源を無意識のうちに反復しようとしている。

カイヨワの遊び論はいかにもフランスの秀才らしくよく整理された本
だが、かれにしても遊びと笑いが(そして自由が)密接に結びついて
いることに気づかなかった。不思議なことだ。笑いにかんしては盟友
バタイユにまかせていたんだろうか。ま、そもそもカイヨワってひと
はたいした理論家ではないが。

カイヨワは遊戯の快楽の根っこに眩暈があり、それが対称性の欠落か
ら生じること、そうした非対称が生命の根源にあることに気づいてい
たが、その認識を理論的に展開するには到らなかった。かれは何でも
要約し、列挙してしまう。

これにたいしてバタイユの理論のなかには遊びも笑いもある。しかし
彼は、脱自=恍惚(エクスターズ)のなかに自らを失うこと――すな
わち端的に言って「供犠」――に性急なあまり、自らを失うためにも
自分という足場が必要であり、自分という足場(ないし「基体」)は、
それ自体が不断に創造される必要があるという存在論的な委細に十分
自覚的ではなかった。供犠はつねに創造に裏づけられている必要があ
る。逆もまた真だ。それこそが遊戯と笑いの本質なのだ。

遊戯は規範を踏み越え、規範を更新し、時に新しい規範を創造しつつ
展開して行く。それはつねに笑いに裏づけられている。この一連のプ
ロセスを支配すること。カオスにたいするコスモスの勝利。沸騰する
生命を我が手に収めること。その凱歌が笑いである。

これにたいしてバタイユは、規範が失われ、カオスにコスモスが呑み
込まれて行く時の錯乱に魅入られていた。しかしそのとき私たちはも
はや笑うことはできない。笑いは決して錯乱ではない。アルトーは決
して笑ってなどいない。たんに狂っているのだ。この点でバタイユの
思索は決定的に踏み過っている。

笑いが真に力強く、どこまでも外へ開かれて行こうとするものである
なら、私たちは不断に笑いを創造せねばならない。遊戯を続けねばな
らない。そのためには狂乱の渦のなかに自分自身を失ってはならない。
自分を守らねばならない。惑乱するカオスの大海を眼前にして、コス
モスの橋頭保としての自我を徐々に旋回する渦巻に変えて行かねばな
らない。そしてついにはカオス全体を自らに包含せねばならない。そ
のとき私たちは未聞の笑いを笑うであろう。

なるほど、遊びにも笑いにも始まりと終わりがある。しかしそれは知
性により企図された仕事や計画の始まりと終わりとは異なる時間秩序
に属している。遊びの時間では何ものも始まらないし、何ものも終わ
らない。あるいはすべてが始まり続け、すべては終わり続けている。
べつの言いかたをすれば、それは祝祭の時間にほかならない。

遊びとは端的に言って祝祭であり、いつ果てるともしれぬこの祝祭の
持続のなかで、私たちはもはや想起しえない起源の接近を予感し、あ
るいは期待し、時に胸を高鳴らせながら、いまだ来たらざる未来、お
そらくは永遠に遅れ続けるような未来を夢見るのである。

私たちは何かを作り出すことはつねに作り直すことであり、生産する
ことはつねに再生産であって、おなじものを反復することが生だと信
じ込まされている。近代以来、そしてカント以来、批判と吟味を経て
正しい認識を担保するものが哲学であり、ひいては学問だとされてき
た。それは同じものの反復に仕える学であり、そのあげく同じものに
自らの寸法を合わせ、それに応じて厳格に生をかたどる修身道徳が人
の身に要求されることになる。若きニーチェはこのような貧困化した
近代の学問を生にたいする犯罪として告発したのだった。

終わりなき遊戯と哄笑の渦のなかで私たちは生まれ、そして死んで行
く。私たち一人ひとりがそうした渦巻そのものである。学のために生
が犠牲にされてはならない。むしろ逆に、生のために学知を蕩尽すべ
きである。遊戯と哄笑の哲学がそこに始まる。

これまでの哲学が歴史の再生産と反復に終始してきたとするなら、そ
れがもっぱら禁欲的かつ修身道徳的で、尊重されるべき過去と、あり
うべき未来のために現在を犠牲にしてきたとするなら、そうした学問
=道徳が抑圧してきた目につきにくい薄暗がりにぽっかりと、遊戯と
哄笑に開かれた蕩尽の哲学のための広大な領野が、手つかずのまま残
されているにちがいない。たとえそれが時間的・空間的に限定されて
いるように見えても、そのひとときの持続は永遠だ。それは生成と創
造のための、そして享受と戯れのための永遠の現在にほかならない。

もっとも、だからと言って、ゲームの規則にかんする冴えた冷徹な認
識を手放してはならない。いつ果てるともしれぬ試行錯誤と遊戯三昧
の極みのなかで、その陶酔と恍惚のなかで、自分を見失うことなく手
札を正しく自他に配分し続けるすべを知る者のみが、反復しえぬもの
の赤裸々な露出と、その未曾有の反復をうべなう日が来ることを正確
に予見し、かつ、それに備えることができるのだから。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2003年05月20日 11時42分43秒


PR


© Rakuten Group, Inc.