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えびすうた -blog-

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2006年08月23日
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カテゴリ:歴史
古代史は大好きなので、その手の記事は目に留まったら読まずにいられません。
でも、正直、これは中身を読んでみたらどっちらけでした。

邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる(共に讀賣)
 古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。

 邪馬台国が存在した時代(3世紀前半~中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)を中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。

 2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた二重構造の埋葬施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。

 一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、全長25メートルの前方後円形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土している。埋葬施設は二重構造とみられている。

 さらに、兵庫県たつの市の綾部山39号墓では03年9月、二重構造の埋葬施設と画文帯神獣鏡が出土。墳形も前方後円形の可能性が強いとされる。

 こうした特徴が一致するのは、京都府南丹市の黒田古墳、岡山県総社市の宮山古墳、兵庫県加古川市の西条52号墳など、近畿や瀬戸内東部で十数基に達する。

 山尾幸久・立命館大名誉教授(古代史)は「共通する墳形や埋葬施設、副葬品は、同じ信仰や価値観念を共有し、結びついていた証拠。その中心が邪馬台国であり、後の大和王権につながる」と考える。

 しかし、九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は「ホケノ山古墳などの年代観が正しいとしても、日本列島全体が統一されていない段階。大和に大国があってもよいが、それは邪馬台国ではない」と反論している。


うーん。
この記事、隅々まで眺めてみても、どこに畿内説の根拠があるのかさっぱりわかりません。
どう考えても最後の方にある九州説を採る方のコメントのほうに説得力があります。「邪馬台国ではない」と断定調で書かれているのはどうかと思いますが。

畿内説は「邪馬台国は日本列島の大部分を統治する巨大国家あるいは国家集合体」というのをほぼ絶対的な前提の上に語られるのですが、これが致命的な弱点なんですよね。この前提が真である事を証明するものが何もありませんから。

この時代より前では漢委奴國王印の奴国、後世では南北朝時代「日本国王良懐」として冊封を受けた懐良親王、いずれも九州あるいはその一部を支配下に置く勢力でしかありませんでした。
邪馬台国もこれと同様に九州一帯あるいはそれよりももっと狭い地域を支配下に置いていたに過ぎないという可能性を否定する材料は今のところ存在しません。
出土した画文帯神獣鏡にしても、本場であるはずの支那で1枚も発掘されていない三角縁神獣鏡と同様、日本で作成された可能性が高いし(画文帯神獣鏡は支那で100枚ほど出土していますが日本での出土枚数の方が多い)。

つまり、この記事でわかるのは、畿内と四国ではそれなりの交流があったということだけ。この記事を見る限りでは、同時期の支那の魏と呉の関係のように、時に敵対し時に一方が臣下の礼をとるといった付かず離れずの関係だった事も充分に考えられ、共に国家集合体の一部だったという証拠にすらなりません。どういう考察をしたらこれが畿内説の有力な証拠だとぶちあげられるのやら。





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最終更新日  2006年08月23日 06時07分55秒
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