平城京・幻の十条大路
平城京といえば奈良時代の大部分において首都だった都で、現在復元された大内裏のあたりは世界遺産にもなっています。そんな平城京が今まで考えられていたよりも広かったと思われる新発見があったそうな。平城京:東半分で400m以上南に拡大 城壁跡も初確認平城京:途中で「京域」縮めた? 「大発見」謎も新たに(毎日)城壁って一応あったんですね、日本の都にも。中華圏における防衛目的のそれと比べれば、しょぼいものなのでしょうが。なにせ地名を山背→山城と変えるだけで強固な城になるという言霊の世界の住人ですから。城壁の存在と同時に、都が九条大路より南まで広がっていたというのが画期的な発見なのですが、この仮称『十条大路』、遷都から20年以内に埋められていたんだそうな。なんでも側溝から出土した土器からそうだとわかるのだそうです。出土した土器がよほど特徴的な土器なのか、はたまた放射性炭素年代測定の測定結果から導き出されたのかはよくわかりませんが、最近はそんなことまでわかるのね。で、なんで十条大路は途中で止めちゃったのかというのが、歴史学者・考古学者の想像力と洞察力の見せ所なのですが、記事を読む限り、1.地形の関係でいびつな形になってしまうので断念2.財政的な問題3.遊んでいる宅地として耕地に振り替えたといったものが考えられるようです。これ以外に仮説を立てるとしたら、現代人には理解が困難な宗教的理由という可能性が挙げられると思うのですが、そういう観点での考察は記事には皆無ですね。時代的には宗教的理由の可能性のほうが高いと思うんですけど。例えば、遷都の前後で陰陽師が替わり風水の解釈が変わったとか。例えば、あえて未完成状態のものを城壁外に設置したとか。日光東照宮・陽明門の『魔除けの逆柱』と同様の理由で。前説なら、それを示したり暗示するような文書があってもおかしくないのにそういった資料は無さそうですし、後説は時代が(陽明門とは)1,000年も隔てられている上に、あえてそんな未完成状態になっている文化財がそこかしこにあるわけでもないので、いずれも全く説得力の無い仮説なのですが。ところで記事では朱雀大路の南端にある正門の事を『羅城門』と書いていますが羅城門って平安京の正門を表す固有名詞じゃなかったのね。城壁のことを『羅城』と呼んでいる事からすると普通名詞なのでしょうか。という事は多分、藤原京や長岡京にもあったんでしょうね。ちなみに私、羅城門の事を大学生くらいまで『羅生門』だと思ってました。ま、古くは羅城門=羅生門でしたからあながち間違いでもないんですけどね。