2011年ゴールデンウィーク。
今年も5月1日がやってくる。
1994年5月1日。
あの年のゴールデンウィークをどうすごしていたのか、全く覚えていない。
時間だけが、うつろに過ぎて行った。
1994年のF1。
台頭する若手ミハエル・シューマッハ。
戦闘力の塊りのような、ウィリアムズのマシン。
1992年、1993年のマクラーレンの不調。
そんななか、アイルトン・セナは1993年のチャンピオンチーム、
ウィリアムズ・ルノーへ、念願の移籍を果たした。
しかし、新車FW16は前年までのウィリアムズの武器がこの年のルール変更により禁止された。
牙をもがれたマシン。
圧倒的なマシン・パフォーマンスを見せたアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がなくなってしまっていた。
特にアクティブサスペンションはエイドリアン・ニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていた。
1994年第3戦サンマリノGPのとき、セナはマクラーレンの元チームメイト、ゲルハルト・ベルガーに語っている。
「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない。」
アイルトン・セナの1994年F1シーズン。
開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転される。
追走中にスピンを喫してリタイヤとなる。
第2戦パシフィックGP
2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にミカ・ハッキネンに追突されてリタイヤ。
開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。
そして、第3戦サンマリノGP。
まだ、BSでのF1生中継は行われておらず、深夜のフジテレビのF1中継だった。
異様な雰囲気の三宅アナウンサーがアイルトン・セナの事故を伝えた。
予選から重大事故が多発したレースとなった。
まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。
結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。
そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。
グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。
何故、ローランド・ラッツェンバーガーが死亡した時点でサンマリノGPが中止にならなかったのだろう。
1994年5月1日、サンマリノGP決勝。
セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタート。
1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。
そして再スタートが切られた後の7周目に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312kmで走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突。
セナが駆るマシン・FW16は大破した。
セナは蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のボローニャ大病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。
享年34歳。
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