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カテゴリ:日常
大山はとりやめ紀伊風土記の丘に行きました。 昨日の午後から紀峰山の会の仲間4人で大山に行く予定だったが、向こうは確実に雨…ということがわかっていたので、いったんいつもの紀ノ川河川敷に集まった上で、いろいろ相談した結果、山行取りやめを決定。そこで解散したのだけれど、余った時間をどうするか… で、久しぶりに集合場所から近い紀伊風土記の丘に行ってみた。 紀伊風土記の丘は、JR和歌山駅の東約2km。国の特別史跡(国宝相当)に指定されている岩橋(いわせ)千塚古墳群を中心とする一帯の丘陵を整備した園地で、紀の国の古代史を物語る資料館や復元された竪穴住居、移築民家などが点在するほか、多くの古墳を巡る散策路もよく整備されている。和歌山市内で育った人なら、一度は遠足で行くところだ。 見どころはなんといっても古墳群で、実に700を数える古墳が発見されているというから、「千塚」というこの地古来の呼び名、必ずしも大げさではない。これだけの数の古墳が集中している所は他にはないそうだ。これらの古墳はすべて、五世紀から七世紀初めの建造…というと、単純に計算して、1年に三基くらいのペースで築造されたことになる。 被葬者は古代豪族の紀氏(きうじ)関係者らしいが、まあ、1年に3人くらいのペースで古墳が必要になる程度の大物が亡くなったのだろうなあ。そのくらいに、当時の紀氏は大所帯で大勢力だったということなのだけれど、古墳一つ作るのも、盛り土をしたり、石造りの玄室や羨道をこしらえたり、埴輪を焼いて埋め込んだりと、それなりの土木建築工事なのであって、そこそこ時間もかかっただろうから、当時、この丘周辺ではずっと墓造りの槌音だの、様々な祭祀の祈りの歌だの音曲だのが鳴り続けていたに違いない。このひっきりなしの工事では、現在のようにこんもりと木が茂る間もあろうはずもなく、きっと裸の山にたくさんの墳丘が墓石代わりにボコボコ突っ立っているのが、紀氏メモリアリパークの情景であったのだろう。 それが、ある時期を境にピタリと止まり、以後、一切、古墳は造営されなくなる。あれだけ熱中していたのに、これはいったいどうしたことだったのだろう。おそらく、仏教の伝来に伴う死生観のコペルニクス的転回というか、一種の文化革命が起きたのだろうなあ。…などということを、ウダウダと考えながら、暮れなずむ古墳群を巡り歩いた。 小規模な古墳の玄室の跡、こんな感じの古墳がごろごろある 大規模な前方後円墳「将軍塚」の玄室。もう、暗くなりかけていたので、結構不気味でした。 将軍塚に近いベンチから紀ノ川平を望む、遠景は紀泉高原の雲山峰。 郡長塚にツリガネニンジンが可憐な花をつけていました。 岩橋千塚最大の大日山35号墳から眺めた和歌山市街地の夕景。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年10月03日 09時09分36秒
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