ちんちん電車での出来事
大正時代から長崎の街を走る「ちんちん電車」。運賃はどこまで行っても定額制。1984年に大人100円・小人(と表記してあります)50円とし25年にわたって値上げを行なわなかったのですが、現在は大人120円・小人60円となっています。さて、そんな長崎っ子の足に久しぶりに乗ってみたところ、こんな場面に遭遇しました。お客を乗せるため停車した駅で、ホームにいた80歳位とおぼしきおばあさんが、開けた前扉越しに運転士さんに何かを言っています。運転士さんが訊き返します。「え?コモ?コモですか?」おばあさんが、「そう。それば買いに行ったとに、困るとですよ・・・。」と、半泣きの顔で言ったとき、運転士さんが電車を停めたまま扉から出て、線路の前方を行く電車を走って追いかけ始めました。前方電車はちょうど赤信号待ちをしていたところ。運転士さんは外側からガラス窓をたたき、前の電車に乗り込んで行きました。しばらくして、何かを手にした運転士さんが前の電車から出て、こちらに駆けて来ます。息を切らせながらおばあさんに渡したものは、萱でつくった菰(こも)でした。長崎の精霊流しの様子を一昨日ご紹介しましたが、初盆でない場合には精霊船は作らず、菰に花や果物などの供物を包んで、それをもやい船に乗せるか流し場に持っていくかするのです。そういう風習のため、この時期花屋さんやスーパーマーケットにはその用途のための菰が売ってあります。おばあさんはそれを買出しに行ったのに、電車の中に置き忘れて降りてしまったんですね。「ありがとうございます。本当に助かりました。」と運転士さんに言った後は、扉の外から私達乗客に向かって何度も謝るおばあさん。「ごめんなさいね。本当にごめんなさいね。」それに応える乗客は、「良いとですよぉ。」「本当に良かったですねえ。」と口々に言い、手を振っておばあさんを見送りました。車内にいらだつ人など誰もおらず、皆がこの親切に立ち会えたという温かな雰囲気。おばあさんが菰に供物を包んでお盆に送ろうとしていた人は、亡くなったご主人でしょうか、それとも誰か別の親戚の方でしょうか。その誰かの見送りが無事にできたなら、本当に良かったと思います。東京だとちょっと考えにくいシチュエーションかも。普通、忘れ物係に連絡してくださいとか、そんな事務的な対応になりますよね。でも当日必要だったんです。精霊流しは15日の夜だけしかありませんから。とっさの判断で運転士さんを駆け出させたのは、相手の状況に心をくだき汲み取って動くという人としての気持ちだったのではないでしょうか。「お待たせしました。発車します。」と何事もなかったかのように電車を発進させた運転士さん。格好良かったです。ちんちん電車が運んでいるのは、その街の風情のようなものかもしれません。中村晃一