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カテゴリ:博物館などの記録
取り分け、混雑はしていなかった。 午前中だったし。 しかし、人は多いので近くからでは見られはしないものだが、おしくらまんじゅう程ではないのでスムーズではあった。 さて、展示内容についてだが、印象派美術と銘打っているだけあって、かなり個性的な絵ばかりであった。 具体的(これこそ変わった表現だが)に言うと、絵自体が淡く光輝く様なものであった。 ビデオ映像解説には、アメリカで勃興した印象派絵画と言うのは、建国してから百年足らずの新興国アメリカを象徴させるものとして、ヨーロッパでは受けなかった絵を採用したから、であったそうな。 それを見聞きして合点承知。 いわゆる印象派に代表されるのはゴッホやピカソなど、20世紀に活躍した画家達である。 そんな画家らはほぼ生涯に亘り日の目を見るような生活をしている訳ではなかった。 画家と言うのは、絵だけでは食っていける代物ではない。 大旦那のお気に入りを描くことによって食い繋いでいたのだ。 それが、中世ルネサンス期における画描きの姿である。 今と変わんねーな。 依頼された仕事に沿って描いているだけだ。 詰まり、お金持ちが絵を買ってくれているのだ。 卑俗ながらも、裸婦の絵が多い、いや多く残っているのもただ単に「見たい」「嗜みたい」「萌えたい」というリビドー全開から来ているのだと感じる。 今と大して変わんねーなあ。 あと、アメリカ人は何故だか日本発の作品を買う傾向にある。 日本画から始まり今はアニメである。 新し物好きなのかミーハーなのか、スイーツ(笑)なのか、自分達に無い物を採り入れて自らの文化に混ぜようとして己がアイデンティティの再確認の出汁にしようとするのだろう。 戦後日本もこんな暗中模索なことばっかりやっている。 さしたる印象画はまだ見られる物であって、20世紀以降の抽象画オンリーは未々受け付けられないのだ…。 判らないのだ。 良いと感じられない。 シュールレアリスムス? これも何と無く判る。 お笑いの世界じゃこれも一ジャンルとして確立されている。 前後の脈絡のなさ、空気の不協和音、滑稽さを笑うものがシュールギャグである。 シュールはわかるのだが、抽象画となると理解不能に陥る。 まだそこのステージに到達していない。 但し、今回のテーマである印象派絵画は観ていると、頭蓋骨を突き破り脳髄へとそのありありとした表現が伝わって来る。 それは逆になってしまうが、新海誠のアニメ的な印象と同じだ。 絵にもトレンドがあるから、何時の時代でも左右されてしまうけれど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.17 01:05:59
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