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そう言えば、アイス(クリーム)はバニラ味が定番だ。
普段何気無く(主に夏限定だが私には関係無く年中)食べているアイスの味の殆んどがこのバニラ味なんだ。 食料品売り場でそのバニラ味の元となる、【バニラエッセンス】が売り出されているが、その原液を嗅ぐと矢張鼻を刺す強烈な甘ったるい臭いがする。 尤もそのエッセンスも元はバニラの乾燥種子から採った物だ。 エッセンス程ではないがバニラアイスを食べた時の香りがするのだ。 あれ、本来はバニラの植物が初めなのに主客転倒してるな。 ヴァニラと記述するがバニラでいいや。 元々メヒクトリ(メキシコ)辺りで取れたバイニーリャ(Vainilla、小さな豆鞘)のスペイン語から来ているのだそうな。 なんでこんなマイナーな香りをチョイスしたんだろう? 乳製品と混ぜ合わせて匂いと味のコラボを実現させたかったのか? 色も強いて言うならバター色に近いな。 なぜこんな話をするかって? どうでもいいんだけど、私の拘りを是非とも知っておきたい。 本当にどうでもいい。 夏は暑い。 今週は30度を超す日が続いている。 こういう日こそアイスが食べたくなる。 年中アイス食べているので暑かろうが寒かろうが関係無い。 冬は寒い故、アイスが直ぐに溶けたりはしない。 夏は気温が高いので、直ぐに溶けてしまう。 溶けることは大きなデメリットである。 味が変わってしまうからだ。 溶かして味わう人もいるが、そんな食べ方は好みではない。 冷たい内に、形がある内に急いで食べる。 さっきから食べるを連呼しているが、アイスは舐めてしまうと、自身の舌の熱で溶けてしまう。 味が変わるとアイスが不味くなる。 不味い印象が来ると、アイスの味が不味いものだと頭の中を書き換えてしまう。 特にバニラ味では乳製品とそのバニラの夫々の味が分離してしまう。 溶けない内にその一瞬の冷たさと冷たさによって護られた味を嗜む。 刹那の中に永遠の輝きがある。 我が国の数字の数え方の特に小数にはインド哲学みたいな響きのする呼び方が存在する。 大数にもあるけど。 一割、一分、一厘、一毛… しかし、漢字に当て嵌る数え方には割と言うのは最近つけられた物である。 グラム(瓦)の十分の一はデシグラム(瓰)、百分の一はセンチグラム(甅)、千分の一はミリグラム(瓱)、十倍はデカグラム(瓧)、百倍はヘクトグラム(瓸)、千倍はキログラム(瓩)…。 とこんな風に割り当てられる。 刹那と言う呼び名もまた、小数の部類に入る。 因みに刹那は10のマイナス18乗である。 それよりも更に奥に、六徳、虚空、清浄と続く。 六徳(りっとく)って、呼び方に数が入ってるじゃねえか。 そんじゃあ六六徳ってどう説明するの? 詰まり、こうだ。 0 . 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 6 これが六六徳である。 一虚空は一六徳の一割(十分の一)、そこを突き抜け更に一割には一清浄がある。 刹那の前に弾指がある。 弾指とは文字通り指で弾いた時の間を意味する。 正にその一瞬の間よりも細かな時に、虚ろな世界があるのだと言う。 それは誠に美しき世界、だからこそ清浄なのだ。 何も混じる余地のない清らかな空間である。 一瞬の中に永遠はある。 アイスを嗜む事はそこに永遠の醍醐…甘露を見い出す事にある。 うむむ…アイスごときで佛教の極意を知る事能うとは…。 刹那はサンスクリット語の音写でクサーナ、クシャーナと呼ばれ、念の意味だそうな。 しかし刹那主義という様にその時の快楽を求める表現だってあるのだ。 更に10のマイナス24乗に涅槃寂静てのがある。 文字を見よ! 涅槃とは死ぬこと。 死の後に寂しさと静けさの永遠がある。 昔の人はとても長い時間に永遠を割り振ったのではなく、常に流れる時間の中でほんの僅かな時の中で変わらぬもの、即ち永遠を見い出したのである。 その時にこそ永遠はあるのだ。 確かに何もない誰もいない単色の無音の空間に居ても、それが譬え僅かな短い時間であろうともそれが長く感じる事がある。 変わらぬという感覚こそが永遠なのだ。 時間が永遠ではない。 アイスで世界の理を知るのだった。 昔の人は偉いなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.23 01:40:49
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