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カテゴリ:映画日和
続き…。
こう見ると...、オタクって初めっから『負けている』んだなと。 幾等言葉で行動で抗っても、世間には『キモい』の一言で片付けられてしまう。
カースト制度のヴァルナでは正に不可触賤民! キモい物はキモい。 世間は、キモオタは死ねと通告している。
世間に声を届くようにするには、キモオタはやる必要も無い献身をせねばならぬのだ。 苛めが無くならないのは正にキモオタが世間の生贄になっているからだろう。
苛めを無くそうと考える者は、世間の大多数だと思う。 最良の至上価値観だが、それでも無くならない。何時迄も辿り着けない最良の、神の領域の価値観。 しかし無くならないのは、人が何時迄も愚かだからだろう。
乙も「苛められている人に対して苛められる人にも原因が有るとか、立ち向かって行けと言うけどそもそもそんな人は初めっから苛められていない。」と言う。 そりゃそうだ。 悪魔に一つでも良心が芽生えればそいつは最早悪魔では無いのだ。 ※昔初期ゴー宣で悪魔と名付けようとした親や容認するコメンテーターに対して意見をぶつけてたな。(小林よしのりは常に正論しか吐かない) そして苛めに対する復讐を教えろと、諭してるな。 元々悪魔ってのは、心とか状態を指していたんだけど、人にそんな物は宿ってないという思い込みで外に逃して擬人化、妖怪化させてったんだろうね。 何処までも誰かの、人の所為にして来た愚かな人類。
うみねこのなく頃には、そんな痛めつけられて来た人々の負の連鎖を断ち切るべく、マリア(真里亞)が魔法と言う名の妄想に漬かって居た風景が描かれてたな。 その魔法(現実逃避の妄想)を継承したのが、生き残ったエンジェ(縁朱)である。 エンジェも学校で苛められてたりしてたな。
妄想(幸せの魔法)が絶望の人を救うのだ。 本田透みたいな感じだ。 人は憲法で良心の自由、思想信条の自由が認められているのだ。 当たり前だ。 人が生来持っている物だ。 誰にも冒す事が出来んだろ、そんな物は。
今一度、漫画規制をする連中は考えてみろ。
大多数に恃んもうが人は決して弛まぬ事はない。 猪瀬は頻りに陳列区分と言ってるが抑も猪瀬のケツ持ちしようとする連中(統一カルト)は、描くなと言ってるのだ。 自分の気に入らない物はこの世から消えてしまえと言っているのだ。 そんな連中から票を貰おうとしているのだ。 表現者として恥を知れ。 知事選は今の所、未だ表明しとらんだろうが、どうせ猪瀬が石原の代わりに立候補するに決まってる。 漫画規制の見返りに票貰おうとするのが見え見え。
この前の石原は兎に角ピンチだったらしい。 そんだけ石原の威光も陰り始めたのだ。 だから次の知事選は危うい。其の為にも浮動票でもある衆愚の票を何とかしてでも煽動して獲得しようとする。 石原は性懲りもなく暴言かましてるが、その事の指摘は誰もしない。 まあマスゴミが統一カルトに毒されてるからだろう。
統一カルトの目的は、邪神文鮮明を日本に呼び寄せる事(復活させる事)である。
其の為に、犯罪者の文鮮明だから入国出来ない状態を何とかして解こうと、政治力を手にしようと考えているのだ。 国民の象徴である天皇を追放して日本国民を文鮮明の奴隷にして、日本に君臨させる。
神を信じていると思われる統一教会の正体は、邪神を崇め奉る邪教なのだ。 弱い者苛めをする事が教義なのだ。
都民は、国民は、邪教に手を貸そうとしている。 弱い者苛めに協力しようとしている。
いいお父さん? いいお母さん?
何処にも居やしないだろうが。 子供がおぞましい物見てるからと言って説得出来る物を持ち合わせる事が出来ずに行政に頼ると言う、親失格の事をしようとしてるのだ。
先程の映画で滂沱する人間よ、その涙は本物か。 己は多きに頼み無意識に弱い者を苛めたりはしないか。
寛恕の心は有るか。 さて、そんなことしたら人は仏になれるな。 夜回り先生はそんな感じだよなあ。 まほろまてぃっくでのセイント、まほろもそんな感じ。
仏の人ってもう二次元にしかいないのが現実なんだなあ。 二次元は糞ゲーだってのが良く判るな。 そういや神のみぞ知るセカイもそんな感じ。
これも言いたい事あるけど、また今度。 映画の後にやってたオタク紹介番組があったが此れが良かったな。 ワンピがフィリピンで描かれてる…。 そんでロシアではオタブーム…。 アニメってこんなにも労力を要するんだぞ! フジ産經は規制に乗っかるが一方でオタクに同情的だったりする。 まあ此れが良い所でもあるんだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.01.10 06:30:20
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