清平の意義
先祖解怨のためには、地上人が正しく発想し、思考し、行動することが不可欠ですが、現実的な日常生活に埋没する中で人は神様の視点や霊界を意識する発想を見失いがちです。だからこそ、「現場」を離れリセットする場が重要であり、真の主体性を取り戻すための訓練期間として清平の「修練会」には大いに意義があります。一方、「役事」はといえば、私が主体ではなく、「受け」に行ってしまうことにより、本来の地上人としての主体性を失わせてしまう危険性を孕んでいます。それもまた、少しでも多くの人々が「救われるように」という純粋なテモニムの精誠によるものならばまだ良いのですが、「解怨してやるのだから金を払え」という感覚や、「金がなければ解怨できない」という構造が万が一あるとすれば、それがテモニムによる解怨の限界点です。本当に救いたくて居ても立ってもいられないならば、一刻も早く、金を出さなくても解怨できる方法を編み出して、解怨されたことによって心から感謝するようになった人々の「善意の寄付」で組織や施設を維持・運営して行けばよいことです。何でも商売にしてしまう逞しさを持った人々に、100%の善意を期待してしまう純粋さは時として「恨み」に変わってしまいますから注意が必要です。いや、そもそも向こうからしてみれば当然に「商売」をしている感覚なのかもしれません。自分で商売して儲けてるのに何が悪いの? 儲けたお金は自分の自由でしょ?と。はとのように従順であるとともに、へびのように賢くあらねばなりません。にほんブログ村