設計主義的合理主義
(1) リバタリアンの幻想●市場は分業の要請によるものであり、モノやサービスの交換・調達の必要性によって誕生した。そして、この市場での交換の利便性のために貨幣が発明された。●市場も貨幣もハイエクが言う「自生的」に生まれ・発展してきたものかもしれない。この自生的秩序を覆し、「設計主義的合理主義」を適用しようとした社会主義は破綻した。●ハイエクは設計主義的合理主義なるものを批判する一方で、資本主義社会の「市場」や「価格システム」などの「自生的秩序」にあまりにも信頼を置きすぎているように思う。●リバタリアンは、政府の統制を可能な限り制限し、可能な限り諸個人の自由を広げることを主張する。確かに、アダム・スミスの言う「神の見えざる手」に委ねても問題が起きないのであれば、それが一番良いのかもしれない。しかしその環境条件が問題である。●ハイエクは「資本が自由に活動できる環境=諸個人の自由が最も発揮される環境」と考えているように思える。●実際には、資本主義社会における諸個人の自由は、持てる者にとっての自由であって、持たざるものにとっては自由など無いに等しい。資本主義社会の自由とは資本の自由なのであって、諸個人の自由とは程遠い。職場は資本の専制的支配下にある。●仕組み(環境)が良ければ、レッセ・フェール(自由放任主義)でも良いのかもしれない。しかし、仕組みが悪ければ様々な法規制(つぎあて)が必要になる。逆に言えば、様々な法規制が必要になるのは仕組みが悪いからである。●コントロールしているつもりの市場は時にバブル現象や経済恐慌を引き起こす。利子貨幣による経済システム、利潤追求動機の資本主義経済システムでは、様々な社会・経済事件や問題に事欠かない。●生命は生存競争に勝ち抜くために本質的に利己的である。人間だけこの本性から免れることはできない。このことの前に性善説や性悪説などの不毛な議論は意味を持たない。このような本性の人間に、無条件で自由放任が一番良いなどとは決して言えない。●加えて、この経済社会(環境)にあっては、人は守銭奴であること、金の亡者になることを強いられる。●人間の本性を変えることはできないが、教育(宗教を含む)によって人間を利他的にさせることは出来ると多くの人が言うかもしれない。二者択一の問題ではないが、脳味噌の改造と社会の仕組み(環境)の改造とどちらがよいであろうか?●思想や宗教による「人のため」は、どのような思想や宗教であるかが問題となる。そのこと自体が人と人を反目させることにもなる。宗教は人間の幸福を問題とする以前に宗教自身を問題とし、凄惨な歴史を繰り返してきた。●生命の利己的本性を変えることはできないが、利己的な動機による活動が結果的に人のためになるような仕組みをつくることは可能な筈である。それこそが人間に与えられた頭脳の活用方法である。資本主義にもこのような要素が全くない訳ではないが故にそれなりの成功を収めてきた。●思想教育としての洗脳によって「人のため」に活動するように仕向けるのではなく、「人のため」と言う動機が発現しやすい社会・経済システムとすることの方が功利的であり、生命の利己的本性も納得する。●「徳」が「得」になり、「得」も「徳」になるような社会・経済システムとすることができれば、安心してレッセ・フェールにすることができる。●リバタリアンが諸個人の自由と法規制による制約の少ない社会を望んだとしても、犯罪や暴力が横行すれば国家がしゃしゃり出てきて法規制を強化せざるをえなくなる。●確かに国家による諸個人の自由の制約は心地よいものではない。しかし、仕組みが悪ければ、虚偽、犯罪、貧富の差、道徳的頽廃など様々な問題がおきる。そして、複雑多岐に亘る法律が必要になり、法律を守らせるための役所や警察が必要になり、学校では道徳教育が必要になり、軍隊が必要になる。●このため、私有財産と資本主義経済の下での諸個人の過度の自由要求は自家撞着に陥る。諸個人の自由は国家という保護者無しにはありえないからである。(2) 野党の幻想●資本主義社会においては「利益が出なければ給料は増えない、下手をすれば倒産する」、「経済発展が無ければ、税収が少なければ、儲けが無ければ、十分な社会保障ができない…」というのは真実である。●この社会においては利益がメインであって、給料アップや福祉の充実はサブにならざるをえない。この主従関係を国民は意識的・無意識的に弁えている。自民党政権が危うくなると見るや国民の保守バネが働く。●与党の失政などから運よく政権にありつけた野党(非現実政党)は、直ちに現実政党化するしかない。非現実に固執するようであれば、現実から手痛いしっぺ返しを受けることになる。●ということで、資本主義社会では一般に、経済的支配者側の政党は常に与党で、労働者や弱者側の政党は野党が定席になる。南米のベネズェラのチャベス政権は労働者や弱者側に立っていると言えるが、国家資本の手による石油産業の賜物である。●弱者救済を訴える政党に組みしたくなる感情は分からないではないが、野党側の論理にいつも説得性が欠けるのは、この現実社会の主従関係に理由がある。変節を拒む野党側の論理の行き着くところは設計主義的合理主義であり、大きな政府や社会主義(資本の国家占有)である。(3) 諸個人の自由を条件とする設計主義的合理主義●主(資本主義経済システム)を変えない限り、従(自由、貧富の差、犯罪、環境問題)の改善には限りがある。●守銭奴・金の亡者を必然化する経済システムを前提に精緻で堅固な社会システムを構築するよりも、「徳=得」になるような社会・経済システムの方が単純にして安価で済むはずである。盗む必要が無いような社会であれば盗みは起きない。なによりも人がハッピーに暮らせるようになる。●未来社会の基本フレームは次のようなことになる。<経済の仕組み>・利潤追求動機の元になる利子を貨幣から取り去る。(減価貨幣にする)・生活不安を除くためのセーフティネットとしての基本配当制度がある。・人に感謝されるような投資・寄付が所得になるような投資配当制度がある。<社会の仕組み>・機会均等を妨げる遺産相続制度を廃止する。・無用な縄張り意識と争いの元になる国境などの境界を廃止する。・政治及び組織に無境界選挙制度を導入する。・地域や組織間の移動・参加と離脱・や脱退が自由である。●ハイエクに言わせれば、このような仕組みを考えること自体が設計主義的合理主義かもしれない。●ところで、専門家や官僚達(彼らも専門家である)達による設計主義的合理主義が問題であるのは次のような点ではないかと思う。・専門家や官僚が考えた合理性と諸個人が市場で選択した結果としての合理性とは異なる。・専門家や官僚は選挙で選ばれた人間ではない。・専門家や官僚がつくる組織が利益団体化する。●しかし、前述の未来社会の仕組みは下記のような諸個人の自由を条件とするような設計主義的合理主義であって、国家による「諸個人の自由の制限が大きい自生的秩序」よりも好ましい筈である。●仮に、未来社会のシステムが設計主義的合理主義の範疇に入ろうとも、もはや設計主義的合理主義の弊害は除かれている。・市場や価格システムは引き継がれる。・自らが生存中に築いた財産は自らのものである。・投資配当の管理は専門家や官僚ではなく諸個人に委ねられる。・資本主義は組織内封建制(任命制)であるが、未来社会は組織内も民主主義(選挙制)である。●私は…思想としての設計主義的合理主義が先導役になることがあるかもしれないが、未来社会は歴史的必然として自生的に形成される。但し、自生の条件が整うには少なからぬ年月を要するが…ではないか思っている。【参考】◆未来社会(新紀元)へのプロセス