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2022.07.31
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カテゴリ:批評

残虐な犯行に及んだ犯人​だからなのか、世間が忘れたころに死刑を執行したなどと実名と写真入りで報道されるってなんだかなあ。刑が確定する前、裁判中はその経過を逐次報道するのは当然だが、わざわざ実名をまたも挙げて世間に忘れるなよと言っているような感じを受ける。

それに伴い死刑の執行は現内閣で何人目とか発表するが、これはいいと思う。死刑が法律としてある以上、執行は当たり前の話であるが、中には一度も死刑を執行しなかった内閣もあった。これはこれで国民の評価を受けるべきである。犯人を憎む気持ち、あるいは犠牲者を弔う気持ちは人それぞれである。しかしこの報道でその感情が再度揺り動かされるようなことになってはまずいことだと思う。

加害者の遺族、被害者の遺族、両方の遺族の思いは複雑で、それを恣意的とも思われる過剰報道と判断されても仕方のないような報道はまずいと思う。それとも、殺人と言う犯罪に大小があるとすれば、それを計るのは被害者の数が手っ取り早い。1人殺害しても7人殺害しても同じ死刑である。マスコミはこれを勘案しているのかもしれない。実名をそのたびに公表してその名前と憎むべき犯行を大衆に知らしめると言うのが諮らずとも合致しているかもしれない。不謹慎な理論だが、死刑の執行の方法で加害者は罪を償うことができるとしたら、法として釣り合うのかもしれない。

思い出すのは中学校で習ったハンムラビ法典だ。「目には目を歯には歯を」という「同態復讐」が基本となっている。この基本は今でもそんなに違っていないと思う。殺害されたのが一人でも何人でも、加害者が一人である以上は死刑は一回で、犯行の大きさが被害者の数と比例するならば、考慮しなければならないのかもしれない。先の不謹慎な理論はあんがいと当を得ているかもしれない。死刑になるまでの死刑囚の心理は心理学者や法学者あたりが研究しているのだろうが、執行の方法を何段階かに分けるのも一方法かもしれない。江戸時代の刑罰の一種で、往来に首だけ出して罪人を埋め、かたわらに竹で出来たのこぎりを置いて、通行人に必ず一回挽かせるというものがある。死亡までに至る時間が長く、罪人の苦しみは言うまでもないが、フランスで考案されたギロチンは一瞬で命を絶つので、よく使われたという。この両方の刑を比べれば、同じ死刑でもおのずと軽重がわかるというものだ。50年代の米映画で「私は死にたくない」と言う社会派の映画では、死刑になった主人公が薬剤注射か電気椅子かを選択できるシーンがある。また最近の映画「グリーンマイル」では公開死刑が行われ、電気椅子での死刑が凄惨にすぎ。立会の検察官や陪審員が倒れたり退場したりするシーンがある。日本では死刑はただ一つの方法、絞首刑であり、採用されている理由は被執行者の苦痛がほとんどないとされているからであるが、本人に確かめようもないので確かではないと思う。閑話休題

とにかく、いまの死刑執行の実名での報道は、死刑と言う刑罰を受けたまっとうな人間に対してふさわしくないと思う。






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最終更新日  2022.07.31 11:39:57
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