1982年今日の出来事「ホテルニュージャパン」
「ホテル ニュージャパン(HOTEL NEWJAPAN)」1960年~1982年■ホテルニュージャパン概要■東京オリンピック開催を目前とした第一次ホテルブームの先駆けとして藤山コンツェルンが設立母体となり1960年に開業した。当時は東洋最大の格式を謳い文句に、旅館部とホテル部の設置日本初のトロピカルレストランやオープンカフェショッピングアーケードを構えるなど画期的なアイディアが盛り込まれ日本における初めての都市型多機能ホテルとしていわばモデルケース的な存在であった。だが、同じく1960年代に開業したホテルニューオータニや東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)ホテルオークラなどと比較すると経営ノウハウや設備などの面で見劣りしたことや、莫大な借入金の負担から経営面では苦戦を強いられた。 地下フロアには高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」がありこちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半からすでに流行や時代の波に取り残されていた。1982年2月8日に火災が発生。主に火元の9階と10階が中心に燃え炎は軽微な焼損も含めると下は5階にまで達しており上部階だけでなく下部階にも延焼していったことが判明。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12人、日本人11人、韓国人8人、アメリカ人1人、イギリス人1人)負傷者34名を出す大惨事となった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが有害ガスを含んだ煙から逃れる為に窓から飛び降りて命を落とした人も13人いた。延焼範囲が広がった原因は、度重なる消防当局の指導にも拘らずホテルニュージャパン側が改善しなかったスプリンクラー等の消火設備の不備・火災報知器の故障やホテル館内放送設備の故障および使用方法の誤り客室壁内部の空洞施工・宿直ホテル従業員の少なさホテル従業員の教育不足による初動対応の不備客室内の防火環境不備(可燃材による内装など)といった複合的要素による火災だったという調査が発表された。この火災では現地時間午前3時24分ごろ出火12時36分の鎮火まで、およそ9時間にわたり異常乾燥注意報発令中の都心を真っ赤に染めるように燃え続けたこの日の宿泊客は442人うち9階と10階に宿泊していたのは103人でこの多くは台湾や韓国からの札幌雪祭りツアー(61人)の宿泊者だった。東京消防庁では、第一報となる3時39分のタクシー運転手からの119番通報を受け、消防車等21台、救急車1台を出場させたが上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生しているという現場からの報告を受けて矢継ぎ早に部隊を増強、午前4時2分には最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」を発令、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて、はしご車12台を始めとする消防隊101個隊(各消防署が丸ごと活動する、いわゆる「署隊」)救急隊22個隊の計123隊を投入、全部隊の指揮を消防総監が直接執るという、異例かつ全庁を挙げての消火活動を行った。また、この火災が起きた翌朝に日本航空350便墜落事故が発生し相次ぐ惨事に東京消防庁やマスコミは対応に追われた。これらホテルニュージャパン火災における数々の違法運営によりオーナー社長の横井英樹は業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受ける。横井社長は火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」などと現場の状況を全く読んでない、緊張感のない発言をしたのに加え「悪いのは火元となった宿泊客だ」と宿泊客に責任転嫁するコメントを発言したりした。また火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる。このような対応が国民からの厳しい非難を呼んだ。運営会社の株式会社ホテルニユージヤパン(ニュージャパンではない)は現在も存続している1990年代までは敷地内で月極駐車場を経営していたが、現在の事業内容は不明。ホテルニュージャパン火災動画