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2020.02.11
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前回に続いてカンボジア旅行(1993年)のお話。

 首都プノンペンに入って最初に行うのはホテル探しだ。貧乏旅行ではホテルは基本的に予約していくことはない。現地で探すのだ。幸いにも目的としていたホテルに空きがあり、すぐにチェックインすることができた。1泊2人1部屋で10米ドルぐらいだったと思う。「高い」と思った。タイだと一泊2人で5ドルぐらいだったから。

 さてその後は両替だ。当時のカンボジアはアメリカドルとカンボジア現地通貨のリエルの2種類が流通していた。現地通貨のリエルを持っていないとおつりがもらえないので、現地通貨に米ドルを両替した。とりあえず20ドルぐらいだったと思う。この時お父さんは初めて「札束」を手にした。当時のカンボジアは平均年収が3ドルぐらいだったのだから、20ドルとはかなりの大金だったのだ。
 ちなみに当時のカンボジアでは最大でも20ドル札ぐらいまでしか使えず、50ドルや100ドルは両替すらできない状態だった。なので日本円を1ドル札や5ドル札に大量に交換してもっていっていた。

 お父さんの記憶が正しければ、当時のカンボジアのバイクタクシーは1時間1ドルだった。ちなみに1時間でも5分でも1ドルで、1ドル以下の料金は無かったように思う。まあ1ドル紙幣より小さい紙幣は無いのだからしょうがない。

 首都プノンペンは、基本的に観光地ではない。観光する場所がないのだ。そんなプノンペンで数少ない観光地が「ツールスレーン刑務所跡」と「キリングフィールド」だった。どちらもポルポト政権時代の遺物である。多くの国民が虐殺されたところだ。

 まずはツールスレーン刑務所に行った。衝撃的だった。刑務所跡には学校の教室数のような部屋があり、数クラス分に渡って当時の収容者がおそらく囚人番号であろうものを書いたプレートを持たされた状態で撮影された写真が数クラス分の壁に展示されていた。おそらくほぼ全員が殺されていると思うと寒気が止まらなかった。
 刑務所跡には独房や、絞首台、拷問道具などが展示されていてどれも日本では見られないものだったが、心は沈んだ。最後の出口付近に虐殺された人の頭蓋骨でカンボジアの国の形をしたオブジェがあった。虐殺の恐ろしさは十分にわかるが、虐殺された人の頭蓋骨で作られたそれに猛烈な違和感を覚えたkとを覚えている。

 さてだいぶ気分が暗くなったところで次の目的地である「キリングフィールド」へ向かった。途中で乗っていたバイクタクシーがぬかるみで転倒したりとアクシデントもあったが、無事に到着した。ちなみにこのバイクタクシーは帰りの行程でも転倒した。

 キリングフィールドは、虐殺された数万人(カンボジアで虐殺された人の延べ人数は100万人とも200万人ともいわれている。)が埋められていた場所だ。虐殺の調査の為に掘り起こされて遺体を回収した跡地である。
 敷地に入った途端、お父さんは歩くことができなくなった。足元に骨が散乱しているのだ。もっと生々しかったのが、その中に歯が混じっていたことだ。キリングフィールドをある国はこの骨や歯を踏みながら歩くしかない。なるべく踏まないようにしたつもりだが、全く踏まないで歩くことは不可能なぐらい骨だらけだった。

 そしてその一角に慰霊塔が立てられていた。5mぐらいの高さの慰霊塔はガラス張りの中に、虐殺された人の頭蓋骨がうずたかく積まれていた。おでこの部分に穴の開いた頭蓋骨もかなりあった。おそらく銃で撃たれた穴だと思った。
 海外旅行で人生観が変わったと思うことは結構あるが、このキリングフィールドはその中でも最大のものの一つだ。
 
 お父さんは当時海外旅行に行くときは1日100枚ぐらいの写真を撮っていたが、さすがにキリングフィールドでは1枚も写真を撮れなかった。

 衝撃的なことはまだある。子供たちがその散らばった骨の上で楽しそうにサッカーをしていた。子供たちにとっては見慣れた光景なのだろう。平和と悲劇が共存する異様な光景だった。
 最後にキリングフィールドを後にしようとしたところ、フルーツ売りに捕まった。売っていたのは「ロンガン」というフルーツで甘くておいしい。ただ売っている屋台の上にロンガンの実がたわわに実っていて、その木の根元にも骨が散らばっている。
 とても食べる気にはなれなかった。

 戦後の日本に生まれ育つと平和は当たり前で、政府に殺されるなど想像もできない。カンボジアは平和を取り戻すまでに多くの尊い命を犠牲にしていた。平和な時代の日本に生まれたことはお前たちにとって、どれだけ幸せなことであるか今はあまり理解できないと思う。
 でも世界には命の保証もなく生きている人たちがまだまだたくさんいる。平和な国で生活できることに感謝して生きてほしいと思う。

 プノンペンで乗ったバイクタクシーのドライバーが、内戦時代に敵の少年兵を殺したときが一番つらかったと語った時も衝撃だった。目の前にいて笑っているドライバーが人を殺した経験を語っているのだから。





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最終更新日  2020.02.11 00:10:08
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