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カテゴリ:思い出(小学生時代)
お父さんが小学校に通う通学路は当時、ほとんどが田んぼや畑が広がっていた。都会のようにあちこちに公園などなかったので、田んぼや畑は子供たちの格好の遊び場だった。ちなみに田んぼのあぜ道はよく通学路のショートカットに使われていて、運悪く朝から水の張った田んぼに落ちて足を泥だらけにして登校してくる子供を見かけることがあった。
さて、春になると田んぼは水を張って「しろかき」をする。こうなると悪ガキたちはあぜ道やコンクリートの仕切りの上で落としっこをする。負けて落ちれば足は靴も靴下もズボンも泥だらけだ。それを嫌ってはだしになったりパンツだけになってやる子供もいた。 今のお前たちから見たらバカにしか見えないだろうが、とても楽しかった。お父さんは手が長かったしバランス感覚が良かったので、この落としっこで負けたことがない。記憶の中ではたった一度だけ田んぼに落ちたことがあるがそれは相手の反則によってだ。 お父さんが落とした相手が、田んぼの中にお父さんを引き釣り込んだのだ。これは暗黙のルール上で許されない行為だった。お父さんは激怒して相手を田んぼの中に転がして全身泥まみれにさせた記憶が残っている。大人げない行為だが、子供だったのでセーフとしておいてほしい。相手が誰だったかも思い出せない。もちろん家に帰って、ものすごく怒られた。兄弟でこの遊びをやっていたのはお父さんだけだった。 田植えが終わったころには田んぼにオタマジャクシやカブトエビ、ホウネンエビなど水中生物がたくさん湧いてくる。オタマジャクシなどはうじゃうじゃいたのでむごい遊びをしながらよく殺して遊んでいた。松の葉っぱに何匹串刺しにできるか競争したり、地面やブロック塀に思いっきりたたきつけて誰が一番オタマジャクシをつぶせるかを競ったりした。もちろん今ではグロくてそんなことはできないし、命を粗末にしていた当時のお父さんをぶん殴ってやりたいとも思う。当時のオタマジャクシさんたちごめんなさい。 夏から稲刈りまではそれほど田んぼで遊べなかった。稲も大きくなるし、稲穂をダメにするのは子供心に「やってはいけないこと」だった。日本人のDNAがコメに対する冒とくを許さなかったのだろうか。 ただし稲刈りが終わった田んぼは絶好の遊び場だ。特に脱穀した後の稲わらを積んであるうえで、プロレスごっこをするのが定番だった。稲わらは1m以上の厚さで積んであるので頭から突っ込んでも地面に届かずふかふかだった。 その代わりに遊んだ後は体中に稲わらのカスが入っていて、全員来ていた服を脱いで必死で取っていた。髪の毛の中からパンツの中まで稲わらが入る込むので、チクチクして大変だった。家に帰るたびに怒られるのだがやめられない遊びだった。 冬になると寒いので田んぼで遊ぶことはほとんどないが、土が乾いて硬くなっているので、通学路のショートカットとして田んぼの中をよく歩いていた。 そして冬の終わりというか、春先に最大の恐怖を伴う遊びが始まる。それが「牛糞チキンレース」だ。田んぼの肥料として田おこしの前に田んぼには牛糞が山のようになって積まれている田んぼがいくつかあった。そしてその牛糞の表面が乾いてくるとこのゲームが始まる。 牛糞の上を行けるところまで歩いていくのだ。固まっているのは表面だけなので、端の方は子供が乗っても大丈夫なのだが、奥へ行けば行くほど足を踏み抜く可能性が高くなる。どこまでいけるかを競い合うのだ。誰かが牛糞に埋まるまで続く恐怖のチキンレースだ。 大体お調子者が無理をして体ごと牛糞に埋まる。一緒に遊んでいるメンバーは助けてあげることはできない。牛糞の上で埋まった友達の手を取って引っ張れば自分も牛糞に埋まる可能性が高いからだ。実際に助けようとして埋まる友達を何度か見ている。 基本的に埋まった人間は半べそを書きながら自分で牛糞から抜け出してくるしかない。抜け出した人間は体中に牛糞をメインにした肥やしがついてとても臭い。 確実に家で怒られる。何度か落ちた親が学校に苦情を入れて先生から集団で怒られたことがある。今となってはいい思い出だ。 今の家も周囲に田んぼがあるが、小学生たちが田んぼで遊んでいるのを見たことが無い。面白いのになあとお父さんは思うのだが、お前たちにしてみれば「昭和の遊び」なのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.11.23 00:10:08
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