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January 15, 2020
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邪馬台国はどこにあったか(その17)を書いていて気がついたのだけど、
古事記や日本書紀の神話や崇神天皇以前の事績は、崇神天皇から応神天皇時代のことを、
時間軸で広げただけなのではないだろうか。

そのせいで、昔から言われる「欠史八代」みたいな話が出たり、
日本書紀における神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と崇神天皇の称号である「御肇國天皇」が
どちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読めるなんて話が出てくるのではないだろうか?
神ならぬ人間なので親は必ず居るはずだから、欠史八代に相当する人たちは必ずいたはずだけど、
その人達はいわゆる天皇ではなく、大きさの違いはあるけど部族長程度だったんだと思う。
下手をすると八代ではなくもっと多かったり、少なかったりするだろうし、
親子ではなく兄弟かもしれない。婿養子や部下の成り上がりもいたかも?
そもそも前に書いたように医療設備や薬の無い時代の寿命なんて、昔は50歳程度だし、
戦争があればもっと寿命は短いし、近親婚を繰り返せば蛭子は生まれるし、
たった1代で九州から大和まで攻め上れるはずは無いし。
なので、名の知れぬ「欠史八代」相当人物はいて当然だと思う。

だけど、神話や崇神天皇以降に書かれている事績は重要なので、意外に根拠があるのだと思う。
どういうことかと言うと、
古事記や日本書紀は藤原氏が天皇家の正当性及びそれによって保障される藤原家の正当性を、
古事記にあっては国内の諸家や子孫たちに、
(国内諸家や天皇家は推古天皇以降は皆熟知しているので記載不要)
日本書紀にあっては対外的に説明する為に書かれたのだけど、
(国外の人はそもそも僻地の日本の事など知らないが、韓国などは知っているのでウソは無理)
古事記と日本書紀では関わる人間の事情が違っていたのだと思う。
学者先生の説では古事記は天皇家の歴史を記したもので、日本書紀は日本の歴史を記したものと、
きれいごとを言っているが、同じ天武天皇が始めた事業なので1つにまとめたら良かったはず。
例えば古事記が推古天皇までしか記されていないのは、
大化の改新の真実(蘇我氏は実は改革派で悪くはなかったことが今では見直されてきている)を
(何らかの事情で)載せることができなくなったので、
本来は天武天皇までを記そうとしていたのに途中で打ち切らざるを得ず、
新たに日本書紀として作り直そうとしたのではないだろうか?

僕は天智天皇と天武天皇の争いが引きずっていたせいだと思う。
昔は天智天皇と天武天皇は同じ父母から生まれた兄弟と言うことになっていたが、
現在は結構異論が多い。僕も相当に疑問に思っている。
仲が悪すぎるし、天智天皇は自分の娘を4人も天武天皇に嫁がせている。
(額田王を取り上げた償いと言う話はあるけれど)
これはたいした根拠にはならないが2人の年齢関係に矛盾がある。
多分2人は異母兄弟なんだと思う。
しかも2人の母親の氏族は敵対関係にあり、天武天皇の母親の家は弱かったんだと思う。
(場合によっては逆かもしれない。天武天皇及び皇極皇后は蘇我氏系で、
 本当に天智天皇も皇極天皇の子供ならば蘇我入鹿を何で殺したのか意味が分からないし、
 天智天皇は乙巳の変後も皇太子のままで皇極天皇の弟(つまり自分のおじさん)を天皇にし、
 おじさんつまり孝徳天皇が崩御後も皇極天皇が重祚して斉明天皇になっている。
 天智天皇の母方の方が弱かったのかも。この辺は謎が多くてよく分からない。)
そのせいで、天武天皇は天智天皇の存命中は大人しくしており、
出家までして天智天皇の子の大友皇子が弘文天皇になるのを許したのだと思う。
その後、日本天皇家史上まれにみる「現天皇を滅ぼして次の天皇になる」クーデターを起こす。

そんな天武天皇だから最初は(滅ぼされてしまった自分の先祖である出雲族又は蘇我氏)
を古事記に書いて残したかったのだと思う。
(壬申の乱で天武天皇に従ったのは旧出雲王朝の人達(美濃、伊勢、伊賀、尾張)が多い。)
それを天智天皇の娘である天武天皇の皇后、持統天皇が阻止したのが日本書紀なんだと思う。
そうつまり天武天皇は出雲系で、密かに(公には書けなくなってしまった)出雲の話を
古事記に書いて残そうとしたのだが、九州系の天智天皇の娘の持統天皇が気付き、
「そんなおとぎ話じゃ国の歴史を書いた本にはならないからちゃんとしたのを作ろう」と
正論を言って天武天皇の策略を阻止したのだと思う。

よく日本書紀は藤原不比等の意志が働き、
藤原氏の都合の良いように改竄されたと主張する人がいるが、半分しかあたっていない。
(逆に言うと、乙巳の変以外は何も役にたっていない中臣鎌足を持ち上げる為に
 罪もない蘇我氏を貶めていると言う部分では藤原氏の意志が働いているので半分あってる。)
藤原氏の基礎を築いた藤原の不比等は、日本書紀の編纂初期の頃の地位はたいしたことはない。
何故なら藤原鎌足の子孫は壬申の乱の後に敵方としてほぼ処分されて不比等の後ろ盾は無し。
ただ、持統天皇は父親の天智天皇との関係で彼を助け、草壁皇子のお付きとした関係で、
彼を取り立てて自分の腹心としたのである。
なので「藤原の一族の為に改竄」はかなり後の話であり、半分しかあたっていない。
(大化の改新における改新之詔等は例えば第1条と第4条は後代の官制を下敷きにしており、
 改変されたらしいと言われている。
 つまり改変は編纂当時ではなく、藤原の一族の力が強くなった後の話ではないかと思う。
 藤原不比等の時には改変されていなかったのではないか?)
始めた当時には守るべき藤原氏そのものがそれほどいなかった。
(逆に言えば、そのせいで日本書紀の初めの方は天皇家に都合の悪い話ものっている?
雄略天皇や垂仁天皇なんて可哀そうにとても天皇とは思えない残虐な人になっている。)
だから持統天皇の意志の方が強いと思う。
例えば誰が名前を付けたのか分からないが「藤原京」なんてひどいと思う。
天皇が自分の部下の名前を都につけるだろうか?藤原京は近世になってつけられた名である。
この都を移したのは持統天皇で日本書紀では新益京と書かれている。
つまり当時は藤原氏不比等よりも持統天皇の方が強かったのである。

<後日追記>
藤原不比等が藤原鎌足の子でありながら最初の頃の地位がたいしたことが無いと言うのは、
そんなことはないだろうと誰も信じないかもしれないが、事実である。
彼が11歳の時に鎌足が死に、13歳の時に壬申の乱が起きて、
天智天皇の皇子=後の弘文天皇(天皇にはなっていないと言う説もある)である大友皇子が、
大海人皇子(後の天武天皇に)敗れた時に中臣金をはじめとした中臣(藤原)一族は処刑され、
不比等は13歳と幼かったせいで免れたが後ろ盾を失い、
日本書紀によれば673年に大舎人の登用制度により下級官人からスタートしているとある。
つまりコネが無くて公務員試験を受けて合格したのがきっかけなんですね。
ただ、その後持統天皇に草壁皇子のお付きとして抜擢されてから運が上向き、
娘の藤原宮子を草壁皇子の子の文部天皇に嫁がせてから皇室に入り込み、
宮子の息子の聖武天皇にさらに自分の娘の光明子を嫁がせてから天下を取った。
光明子は後に藤原四兄弟の協力により光明皇后(皇室関係以外で初の皇后)となり、
ここから藤原の天下が始まったのであるから、
よく藤原鎌足が藤原家のスタートのように書く本もあるけど、
壬申の乱で一度最下層に落ちて、不比等により頂上に昇りつめたのであるから、
実は不比等が藤原の祖と言って良いのではないかと思う。
実は不比等の出世があまりに早いので、不比等は天智天皇の落胤だったと言う説もある。
あまり根拠もなく想像の産物でしかないが、
もしそうなら天智天皇の娘である持統天皇とは兄弟であり、
持統天皇に引き立てられたのも納得がいくので、有りうるかもしれない。

持統天皇は自分の子の草壁皇子を守る為に大津皇子を殺した人だし、
(日本書紀を見ても明らかに草壁皇子より大津皇子が優秀だったと書かれていて、
 次期天皇の有力候補だから自殺するはずが無いし、天武天皇崩御後すぐと言うのも怪しい。
 日本書紀では草壁皇子のことはあまり良くは書かれていない。
 え?日本書紀は公平だなって?そういう面はあるなぁ。)
草壁皇子が病死した際に軽皇子が幼過ぎたので自ら持統天皇となったくらいの野心家なので、
天武天皇の「念願」とされたいくつかの事績は彼女の意志だった可能性が高いと思う。
日本書紀の編纂も主には藤原氏だが、持統天皇の意志反映が強く、
彼女は直近の物部氏や蘇我氏の名前や事績はともかく、古い自分に都合の悪い歴史は消して、
自分にとって重要な天皇家の正当性を「自己主張ではなく歴史上の事実として」残そうとした、
その為には天皇家だけの作業ではなく「委員会形式」にして複数の人間が関わったことにして、
「客観性があるように見せかける」ことが大事だったんだと思う。今の国会みたいである。
本当は一部の人間の利益の為なのに、多くの人間が関わって正しい物を作った形式が大事?
そんな今の世の中でも通用する政治的手段を既にこんな昔に確立していた女性だからすごい。

<後日追記>
ただ、持統天皇が直接関与したかと言うと違うかもしれない。
委員会形式なので天皇は出席しないし、皇子を使って間接的に関与はできるが、
皇子同士の思惑もあるから一本縄ではいかないので、
上記の草壁皇子のように「何でもっとほめないの?」的な話もあるし。
何より日本書記が完成したのは持統天皇の崩御後なので。

で、話は元に戻るけど古事記には天皇家に都合の悪い出雲の神話が詳しく、
日本書紀では隠せなくなったことは「あるふみにいわく」形式で別の説として残す形になり、
他の一族の行った事績をうまくごまかして自分達の先祖が行ったように書いているのだと思う。

で、冒頭の
「古事記や日本書紀の神話や崇神天皇以前の事績は、崇神天皇から応神天皇時代のことを、
時間軸で広げただけなのではないだろうか」となるのである。
例を表にしてみた。
例によって150%位に拡大して見て下さい。読み終えたら元に戻すのを忘れずに。
こうしてみると日本武尊って大国主命と似ているような気がする。
両者とも実在性を疑われているけれど、崇神天皇が実在の人物ならば、
名前はともかく、日本武尊は仲哀天皇の父親として実際にいた人なので、
例えば四道将軍をまとめる大将軍で、四道将軍の事績を彼にまとめたのなら話は通る。
どこの家でも「御先祖様はすごかったんだぞ」とか「我が家は500年も前から続いている」と
言って自慢はしたいし、それが天皇家なら正当性につながるからな。

僕は尾張と出雲は密接な関係が有ったと思っているので、
名古屋の熱田神宮の傍の断夫山古墳の主と日本武尊はかなり近い関係だと考えると、
景行天皇が日本武尊を溺愛しながら遠ざけたのは息長氏と竹内氏が関わっていると思う。
息長宿禰の娘の息長足姫が仲哀天皇の后でありながら竹内宿祢と密通し出雲を滅ぼしたのは、
息長氏(息長足姫=神功皇后の家)と竹内氏が共謀して出雲を追い出したんだなと思えば筋が通る。
景行天皇は出雲を守れずに息長氏と竹内氏に実権を渡したんだと思う。

そう言う意味では邪馬台国はどこにあったか(その17)で書いた国譲りの解釈とダブる。
国譲りの舞台は大和の地で、大国主命の子の建御名方神が、
出雲に縁が深い美濃や尾張に近い諏訪に逃げたと言う話は筋が通るような気がする。
出雲から諏訪に逃げるのはあまりに遠いし、
後に壬申の乱で大海人皇子が美濃や尾張に助けを求めて逃げた後に大和に逆襲する話や、
天照大御神を祀る伊勢神宮を伊勢の地に決めるまでの経緯の話も分かるなぁ。
土地の決定を神様のせいにしてるけど、
本当は関係するいくつかの種族の調整が大変で、なかなか決まらずに、
結局は豊受の神様を外宮と言う形でくっつけて妥協して決まった?背景が分かるな。
神様にかこつけた人間の(一族の)争いの結果だったんだな。

大国主命の子が事代主の命と言うのは親子関係が逆で、
実は景行天皇が事代主命で、その息子とされている出雲系の日本武尊が大国主命なのだと思う。
子が親に意見を聞くのなら普通だけど、親が子に意見を聞くのは変だもんね。
国をまとめるほどの力を持つ大国主命が子供に意見を聞くだろうか?
(日本武尊の曾孫が景行天皇の后になっていると言う説もあることだし。)
景行天皇(事代主命)は日本武尊(大国主命)に後は継がせずに、
(出雲に近いはずの日本武尊が出雲猛を誅殺した話は変ではと思うが、
 この話は古事記にはあるが日本書紀には無い。)
成務天皇に後を継がせる話が「国譲り」だったんだなと思う。
(神話に有る日本武尊の病は毒殺されたと言う意味?景行天皇が嘆くのも無理はない。
 いくら息長氏でもそこまでやるとは思ってなかった?
 僕の事代主の陰謀により大国主が殺された説は間違いで、事代主命も騙されたのかな?)

上の話から成務天皇は実は竹内宿祢と同一人物で、
彼は景行天皇に実権を譲られたのかもと言う話が納得できる。
成務天皇は景行天皇が存命中に様々な政策を実行し、勝手に都を移そうとしている。
普通は天皇が存命中に皇嗣が天皇をないがしろにして政治を行うなんてあり得ないのに。
成務天皇と竹内宿祢の関係を疑う人もいる。2人は生年月日が同じで主従だったらしい。
成務天皇没後の仲哀天皇の熊襲征伐の折の色々なエピソードは謎にあふれている。
仲哀天皇の亡くなった際の話はどうみても暗殺だし、応神天皇の出産の話は作り話。
多分応神天皇は竹内宿祢の子供だと思う。
そうするとその後の4人の天皇に竹内宿祢が仕えたと言うのは逆で、院政みたいな感じだった?
息長足姫は竹内宿祢と仲哀天皇を天秤にかけたのではないだろうか?
まぁ、これは今回は関係の無い話なのでここまで。

尾張氏が出雲氏の子孫で日本武尊と縁が深く、日本武尊が大国主命ならば、
熱田神宮に草薙剣がある理由が分かるな。





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最終更新日  February 10, 2020 06:50:23 AM
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