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January 1, 2020
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毎年1月1日には初詣に行くのだけど、3社参り以上を心掛けている。
以上と言うのは自分の家族の為に行く神社以外にも日枝神社等会社の仕事に関して行くから。
日枝神社は首都東京の守りであるだけでなく、建築関係で安全の神様だから。
現場で一番大事なのは安全で、安全は日頃からの積み重ねは当然のことで意識が大事。
意識を高める為には迷信だとは思いながらも何らかのきっかけが必要。
だらだらとではなく、年初に今年も安全に行くぞと決意をする際に必要な場なのである。

まぁそれはそれとして、家族のこととして行くのは近所の神社。
お賽銭をあげて、神様にお願いをするのは家族の安全と幸せ。大事だと思う。
神様が何かをしてくれるのを期待するのではなく、ここで自分がやることを決意するのが。
だって人間を相手に決意を述べるのは恥ずかしいから。神様なら黙って聞いてくれる。

近所には富岡八幡宮がある。
ここは源頼朝が鎌倉に幕府を開く前年に摂津の国から招いた蛭子神を祀った由緒ある神社である。
深川にも富岡八幡宮があるが、あれはしょせん江戸時代からの歴史の浅い富岡八幡宮。
ここの八幡宮から分祀したと言う話さえある。
ここの八幡様は応長の津波から村を守ったと言う言い伝えの有る「波除八幡」であり、
海抜0m地帯の深川の人達が村を守る為に、ここから分霊したのだそうだ。

この付近は鎌倉幕府に関わる遺跡や遺物が多く、
鎌倉の鶴岡八幡宮は当然として、
金沢八景には同じく頼朝が伊豆で挙兵した際に伊豆の三島神社を勧請した瀬戸神社もある。
ここにも毎年お参りに行くが、付近には北条政子が瀬戸神社に併せて造った琵琶島もある。
琵琶島は琵琶の形をした島で弁天様を祀っている。
また、京浜急行で1駅行くと金沢文庫駅に稱名寺があるがこれは北条実時が建てた北条家菩提寺。
これらから考えると源氏の棟梁である源頼朝は都の人かもしれないが、
それを支えて、後に幕府の実権を握る北条家はこの辺を根拠とする首領で、
もしかすると大和政権が成立する前からこの辺にいた豪族の子孫だったのではないだろうか?
そう考えるのは、日本武尊が吾妻の地を平定する際に残したこの辺の事績から。
神話としては弟橘姫命の逸話がある。
横須賀市のホームページを見ると古事記や日本書紀に記された伝説で、
上総の国へ渡ろうとした日本武尊が「この程度の海」とバカにしたのを海神が怒り、
困っていたのを日本武尊の妾の弟橘姫命が海に身を投げ出して神の怒りを沈め、
渡ることができたそうで、
その際に付近の人達に「冠」を渡したのを石櫃に納めて建てたのが走水神社で、
対岸の木更津には弟橘姫命の「櫛」が流れ着いたのを納めた橘神社がある。

で、ここで気がつくのは走水神社の由来で地元の村人が「冠」をもらっていること。
日本武尊は皇嗣だったので、そんな偉い人が農民に冠を与えるだろうか?
ばかなことを言うんじゃないと思う。お顔を拝顔するだけでも恐れ多いと思う。
なので、実はここには相当に有力な首長がおり、
日本武尊はその首長に冠を与えたのだと思う。
その子孫が金沢文庫に館を構えていた北条氏なんだと思う。
源頼朝を支えた北条氏は伊豆國田方郡を治めていた北条氏が中心なんだけど、
Wikiにも書いてある通り、系図が明らかでなく、いくつかの豪族の集合体だったと思う。
南関東の古墳を見ると相模や東京湾沿岸にたくさん大きな古墳があり、
静岡の伊豆よりもこちらの方が開けていた感じがある。
日本武尊の焼き討ちの伝説も静岡の焼津であったと言うことになっているが、
弟橘姫命の歌を見ると、本当は相模原での出来事だったんではと思うことがある。
ちなみに有名なその歌は、
「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と言うもので、
燃ゆる火は「相武の小野」なのである。焼津ではない。
まぁ、このことは今日の主題ではないので置いておいて、
要は鎌倉から横須賀、金沢文庫そしてこの辺富岡辺りには古墳時代から、
天皇の子、皇嗣の日本武尊から冠を頂けるような大きな豪族がいたのではないだろうか?
今年の初詣の際にそう思った。

<後日追記>
今日歴史本を読んでいて、妄想だと思っていた上記の、
元々、この辺には海の民を祖先に持つ豪族が複数いて、それが統合されて後に北条氏となり、
源頼朝の時代に彼を支えて源平の合戦を征し、鎌倉幕府を立てたのだが、
逗子の長柄桜山古墳や下記の富岡古墳(僕の勝手な命名で世の中には認められていません)は、
彼らの祖先の豪族の墓ではと言うのが真実味を帯びてきた。
何故なら、金沢文庫の称名寺は北条家の菩提寺だし、
富岡神社は源頼朝が摂津の国から「海神=蛭子神」を勧請したものだし、
北条政子は金沢八景に弁天神を連れてきているし。
鎌倉からわざわざ一山超えたこの地に菩提寺を作る必要性って何だろう?
答えは一つだと思う。ここは北条家にとっての聖地、王家の谷だったのだと思う。
下記の富岡神社裏山が古墳ならば、彼らの祖先の墓で、
そのそばに菩提寺を設けて古代からの祖先を祀っていたのだと思う。

そう思いながら神社の参道を登っていると、神社の山が古墳に見えてきた。
神社と言うのはお寺とは違い、良いことをした人を称えて祀ったり、(明治神宮とか)
祟りそうな人を慰める為に祀ったり(出雲大社とか)、
結局お墓みたいなものなので、実は神社の裏山は古墳と言うパターンは多い。
僕の田舎の北九州の神社もそうだった。
それまでは誰も古墳だと思わなかった神社の裏山が、道路工事で掘ったら石棺が出た。
北九州市の教育委員会は慌てて調査を始めたが、実は僕らガキンチョは既に掘っていた。
なので、ガキンチョの家には須恵器(昔の土器)のかけらがいっぱいあった。
教育委員会で土器を復元する際に足りなくて困ったかもしれない。

もしかするとと思ったので、帰ってgoogleMapで見てみた。


完全に古墳じゃん!
しかも前方後円墳。
後円墳部分は神社の建設で削られて無いが、奇麗な形をしている。

<後日追記>
上から見ただけでは信憑性が無いので、横から見た写真を載せる。


実は現地で見るとすごく高さが高い。なので多くの人は古墳だとは感じにくいと思う。
でも、横から見ると1段台状の部分があって、その上に古墳が乗っている。
だから高く見える。まぁ、それでも確かに高さが高いのだが。
近畿の古墳が建築面積が大きいのに対してこの辺の古墳は高さが高いことに価値を見出してる?
そう言えば逗子でアマチュア研究家が発見して話題になった「長柄桜山古墳」は山の上に有るし、
相鉄線かしわ台の「秋葉山古墳」も山の上だからなぁ。
「長柄桜山古墳」なんか山の頂上に有るので、普通に地上から見ても古墳が有るのが分からない。
もしかしたら山を利用したり、山の頂上付近に有るのが関東の古墳の特徴かも?

参考に関西の前方後円墳の写真を見てみよう。仲津媛陵である。応神天皇陵も似ている。


ほとんど相似形。富岡八幡宮の周囲の黄緑色の部分が堀だと思えば「ほぼ同じ」
田舎の古墳で費用と技術的に完全ではなかったと言えば十分。
問題は出土品だが、神社を作る時に埋葬部分は削られて、
相当に昔の話なので何も証拠は残っていないかもしれない。昔のことなので仕方ない。
2日後に現地を歩いてみたら、方墳部分も削られて、
木が無いと上空から写真を撮っても上の写真のようには見えないかも。
古いものを残そうと言う人たちと現在の生活が大事だと思う人たちがいるから仕方ないな。
せっかくの古い遺跡がみんな無くなってしまう。
宮崎の卑弥呼の墓も道路工事で跡形もなくなってしまったそうだし。

でも、人によっては、この山はあくまでも山だと言い張るかもしれない。
固定観念に取りつかれた人は「盛り土」でないと古墳と認めないから。
でも、農耕民族は「盛る」かもしれないけど、海洋民族は「削る」かもしれない。
つまり元々あった山を削って古墳として形を整えたと言うこと。
だって、この付近はあちこちに山を削った摩崖仏なんかが有るんだもの。
山を削って仏さまを造る人達なら、山を削って古墳を作っても不思議ではない。

写真の道路に沿って昔は海が有ったと言うし、
源頼朝が連れてきたのは「蛭子神」だったと言うし。
蛭子神は日本の神様でインドの神様の恵比須様とは違い、
古事記や日本書紀で有名な「蛭子(ひるこ)」にちなむ漁業や海洋民族の神様。
だから頼朝は摂津の「蛭子神」を地元の海の民の為に連れてきたのだと思う。

富岡八幡宮では6月に「祇園舟」を流す行事をする。


この行事は「八幡様の行事」ではなく、それよりも古い時代からある「蛭子神の行事」では?
古事記や日本書紀の中の蛭子(ひるこ)は葦舟に乗せて流されて摂津の国に流れ着き、
そこの「夷三郎」さんが蛭子を育てたことから夷神とも書かれ、夷大明神として祀られていると、
西宮神社の縁起に書いてある。(ただ、西宮神社自身もインドの神様と混乱してる。)
西宮神社縁起​を御覧願います。
それが富岡八幡宮の「由緒」に書いてある頼朝が分祀したと言う元の西宮神社であり、
富岡八幡宮のホームページにも「蛭子尊(ひるこのみこと)」って書いてあるじゃん。
富岡八幡宮由緒​を御覧願います。
この祇園舟が「葦舟を流す」と言うことから明らかだと思う。八幡様は葦舟に関係無いから。

境内に飾ってある「恵比須様」に「恵比須様」と書いてあるのが悲しかった。
富岡八幡宮の由来は、ここの辺に古墳時代から住んでいた一族の首領の墓で、
へたをすると日本武尊の時代に既に「何か」有ったんだと思いますよ。

<後日追記>
蛭子神=恵比須様=夷様で良いのかもしれない。
6世紀中頃の仏教伝の際に、何とかスムーズに仏教を受け入れる手段として、
(色々な説が有りすぎて僕らが高校入試の時に覚えた御参拝(538年)の仏教伝来も、
 今では間違っている可能性を言われて、Wikiを見ると552年に公伝なんて書いているけど)
日本では聖武天皇が国家護持の為として東大寺を開いた際に、
宇佐八幡宮を中心とした各八幡は積極的に神仏習合に走ったらしいので、
富岡八幡宮が最初蛭子尊を祀る神社だったのが36年弱後に八幡宮を習合したのは
その流れだったのかもしれない。
特に毘沙門天なんて完全にインドの仏教の神様だもんね。
同じインドの神様ならば何で多聞天を仲間に入れなかったんだろう?
でも釣竿を持って魚を抱えた恵比須様は漁業の神様として早くから日本の神様となってしまった
蛭子様は七福神の中の唯一の日本の神様だそうだ。(逆に言えば他の六福神は外国の神様?)
そんな経緯から西宮神社も富岡八幡宮も蛭子神=恵比須様として扱っているのだろう。
むしろ蛭子(ひるこ)が後付けで、恵比須様を日本に受け入れる為に作られた話かもしれない。
でも、祇園舟はどちらにしても八幡様ではなく蛭子様の行事だと思うな。





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最終更新日  April 15, 2020 10:51:19 PM
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