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テーマ:たわごと(26807)
カテゴリ:日常
天皇即位の儀。ラグビーW杯サモアに勝利ベスト8に・・・明るいNEWSです
度重なる豪雨の被害 老朽化している建物で、上階からの雨漏りに私も 末弟がラグビーを始めたのは少年自衛官になった、民間で言えば高1の時でした。 兄の練習を見に行って、おとなしく気が弱いと思い込んでいた兄がキャプテンとして チームを牽引しているのを目の当たりにして、それまで「兄貴は俺が守る」との 信条が尊敬に変わったからでした。 末弟が4年生の時に、今でも語り草になっているエピソードがあります。 母に何かを買ってほしいと頼んだらしいのですが 「そんなに欲しければ自分で働いて買いなさい」と拒否され、何処からか 納豆を仕入れてきて「これを売ってくる」との籠へ 母は「みっともないことしないで!! すぐ返してきなさいっ」 帰宅した父は「やらせて見ればよかった」男性と女性の違いですね。 ネットは勿論、を引いている家も少なかった時代です。 どうやって仕入れ先を見つけたのか、何故小学生に品物を卸してくれたのか 知る術はありません。 少年自衛官を受験する時には、担任から「君が入学可能な高校より、 ずっと難しい受験だよ」と言われても意思を曲げることはありませんでした。 首尾よく合格し15才でを離れて行きました。 今になって気付くのですが、末弟は父と同じ仕事を志していたのです。 零細企業の経営の厳しさを見ていたので、会社が駄目になった時 運転手で 『食っていける』と 地上を動くものなら全て運転できる技術を習得できる少年自衛官特科を 受験したと後年話してくれました。 ラグビーに関わっていたのは、在籍中のこの4年間だけで、ラガーマンと 呼ぶにはおこがましい気がします それでも秩父宮ラグビー場での 試合には応援に行きました。 スクラムを組んでもを出す前に 両チームとも潰れてしまうような幼稚な試合で、私たちは笑ってしまいましたが 秩父宮妃はジッとお目を離されることはありませんでした 初志貫徹で起業しましたが「夜中に目が覚めるとお父さんが布団の上に座っているの」と 義妹が語るように苦労も多かったと推察しますが、努力は報われて、亡くなってから 10数年たった今では甥が順調に経営を続けられる程の基盤を作り上げていきました。 余命1年と宣告されたのは62才の時でした。がん保険に入ろうと受けた検査で 肝臓に癌が見つかり、小さい腫瘍でしたが、血管に掛かっていて手術不能だと セカンドオピニオンを勧めたのですが「癌研は日本一の」と聞き入れません 家族はどんな思いで1年を過ごしたことでしょうか 悲しみを掘り返すようで訊くことは出来ません。 ホスピスに移った時ティンコ♂一家がお見舞いに行ってくれました。 「会えて良かった。結婚式が海外だったので行けなかったから、会えないまま 逝かなくてはならないと思っていたんだ」 「葬儀はケチるな」が遺言だったと、甥は見事に大勢の参列客を取り仕切りました。 「伯母ちゃん。会いたいって言う人がいるけど」姪に言われ、会ってみると 少年自衛官時代の同級生の方たちでした。自衛官に任官し夫々昇進された由。 「お姉さんは、入隊式に参列なさってましたよね」「ジャンケンで洗濯当番を決める」 末弟が編み出したルールは今も続いている。民間人になってからも同期会には必ず 出席し、会費は何時も全額負担していた等、在りし日の思い出を話していただきました。 「お義姉さん。いま☎大丈夫?」お互い一人暮らしなって 週に一度はしてくれる義妹です。 残された甥や姪とも交流が途切れることはありません。感謝です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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