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2016年05月19日
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カテゴリ:陽明学
 
体充曰く、釈尊の教えの法を立てめされたる本意は勧善懲悪のためなり。
其の上、道の大意を悟りたる人なれば、
其の教えの法さほどに世をまどわし人を誑〔たぶら〕かし、
禽域〔きんいき〕におとしいるることは有るまじきと存じ候いかが。
 
師の曰く、不審尤もに候。
易学をよくきわめざれば合点成りがたき処〔ところ〕なれども、
その皮膚の大意をかたり候べし。
子曰、差之〔コレヲタガウニ〕、毫釐〔ゴウリナレバ〕、謬以千里
この聖模〔せいも〕の意〔こころ〕は、心法の立ちよう毛頭たがいぬれば、
その議論、行跡〔こうせき〕のあやまり、千里のちがいとなると云う義なり。
しかる故に先、悟りをひらく精粗〔せいそ〕、生熟〔しょうじゅく〕、高下、
心法の立ちようの差別を明らかに弁〔わきま〕えざれば、儒仏真妄のわかち知りがたし。
夫〔それ〕人間は迷悟の二つにきわまれり。
迷うときは凡夫なり。
悟るときは聖賢、君子、仏、菩薩なり。
その迷いと悟りは一心にあり。
人欲ふかく無明の雲あつく心月のひかりかすかにして、
やみの夜のごとくなるを迷いの心と云うなり。
学問脩行〔しゅぎょう〕の功つもりて人欲きよくつきて、
無明の雲はれ心月の霊光あき(明)らかにて(照)らすを悟りの心と云う。
此の悟りの心を仏教に無心・無念・本仏・妙覚仏・化身仏などと名づく。
また無碍清浄位〔むげ しょうじょう い〕と云う。
前かどに論ずる高明広大の道体をさとる狂者の心の位はこれなり。
かくのごとく悟りたる心の無欲無為自然の霊覚を真心〔しんしん〕と定め、
真性〔しんしょう〕と定め、仏心と定め、仏性と定める。
これすなわ釈尊・達磨の心法の端的なり。
三大乗の観念、千七百則の公案〔こうあん〕皆この端的に約〔つづま〕れり。
此の無碍清浄位、無心無念の本仏は不思議の体〔てい〕にして
毫髪〔ごうはつ〕の按排〔あんばい〕をいれざる処なれども、
儒教には此の無碍清浄の位の上に不思議神通の力をもて、
神裡〔しんり〕・霊気不二の二、不一の一を明弁して一段向上精一の神化〔しんか〕あり。
此の神化の後を聖人と名づく。
至妙天真・艮背敵応〔ごんはい てきよう〕の位なり。
此の神化の結胎純熟〔けったい じゅんじゅく〕半ばなるを亜星の大賢〔たいけん〕と名づく。
中行の位なり。
中行は、無欲無為自然の真心、無碍清浄の位の上にて、
至妙天真、艮背敵応の聖胎〔せいたい〕をむすぶによって、
その議論、行跡聖人にたがわず。
これを大一天真〔たいいつ てんしん〕の神道と名づく。
許由・巣父・曾〓(析+日)・荘子・釈迦・達磨などは無欲無為自然の真心をあきらかにし、
無碍清浄の位に至りてこれを至極中道、山頂なりと定め、
至妙天真、艮背敵応の聖胎をむすばざるによって、
その心、無欲無為清浄自然なれ共、その応事接物〔おうじ せつもつ〕の議論、行跡、
猖狂妄行〔しょうきょう もうこう〕にして、聖人艮背敵応の天真にそむきたり。
天真にそむくといえども、無欲無為清浄自然の心なりによって悪と云うべきにもあらず。
悪にあらざれども、天理にかなわざれば天真にもあらず。
無欲の妄行と云うものなり。
聖人これを狂者と名付けたまう。
狂の字に眼をつけて観察すれば、無欲の妄行の義、いわずして分明〔ぶんみょう〕なり。
つらつら体察〔たいさつ〕するに、仏者は元気の霊覚をさとりて至極と思い、
唯〔ただ〕無欲無為自然を心法として元気の霊覚に任〔まか〕する故に、
其の心粗濶〔そかつ〕にして、その行跡狂妄なり。
儒者は理を窮〔きわ〕め、性を尽くし、命に至るを心法とすれば、
無欲清浄無為自然無碍のことは云うにおよばず、
専〔もっぱ〕ら元神〔げんしん〕の霊覚に率〔した〕がう故に、
その心精妙にしてその行跡中正〔ちゅうせい〕なり。
儒者悟道〔ジュシャ ミチヲサトルトキハ〕
即其心愈細〔イヨイヨ コマカク〕、
禅家悟道即其心愈粗〔イヨイヨアラシ〕と、
楽軒〔らくけん〕の発明めされたるも此の意なり。
元神、元気は不二の二、不一の一にして、まことに毫裡のたがいなれども、
其の議論、行跡のあやまりは千里よりもとお(遠)し。
しかるによって其の教法、勧善懲悪のためなれども、
そのすすむるところの善、皇極〔こうきょく〕の至善にあらず。
こ(懲)らしいさ(諫)むる所の悪と名づくる悪のうち真実の悪にあらざるあり。
不淫の類〔たぐい〕これなり。
釈尊、十九にて天子の位をすて、山に入り、三十成道〔じょうどう〕の後〔のち〕、
人間本分の生理をいとなまず、或る時は乞食〔こつじき〕し、
人倫を外〔ほか〕にし、人事をいと(厭)いすて、
種々の権教〔ごんきょう〕、方便説をときて愚民を誑誘〔きょうゆう〕めされたること、
皆これ無欲無為至善清浄の位を極上と定め、
元気の霊覚にまかせたる毫髪の差〔たがい〕よりおこりたる無欲妄行の誤りなり。
その流れをくめる末代の比丘、釈尊妙覚の真性〔しんしょう〕、
無碍清浄の位をその心地〔しんち〕に悟り得ることをば務めずして、
徒〔ただ〕に釈尊無欲妄行のあとをに(似)せたるばかりなれば、
我慢の邪心、凡夫よりもふかくて、
高言をたくみにし弁舌をたくましくしてかりそめにも勝たんことをこのみ、
愚民を誑かしすすむるをもて務めとし、
おなじなが(流)れをくみながら我慢の偏執を立て互いにそしり争うこと、
貪夫〔たんふ〕の畔〔くろ〕よりも浅まし。
しかる故に、仏者は太虚を超出〔ちょうしゅつ〕すれば貴〔たっと〕きことならびなきによって、
父母兄長をも崇恭〔すうきょう〕する理〔ことわり〕なしなど云いて、
其の父母を拝せず、父兄をうやまわず。
黄檗禅師〔おうばくぜんじ〕の、母をころせるを真実の大孝なりとほめ、
或いは三綱五常〔さんこうごじょう〕の道は
今生幻の間のいとなみにして菩提の種にならずなどと誑誘し、
或いは主親〔しゅうおや〕をころしたる極重〔ごくじゅう〕の悪人にても
念仏の功力にては必ず極楽浄土へ往生するなどと教誨〔きょうかい〕せり。
其の外いろいろ巧みにし寓言をつくりて、
人心〔じんしん〕をまどわし禽域へひき入れ、
世教〔せいきょう〕のさまたげとなる事、挙げてかぞえがたし。
かくのごとくなるは、よくまなばざるの過ち、末流の比丘の罪なりといえども、
根本は釈尊無欲の妄行よりおこりたるものなり。
釈尊の心地、無碍清浄の位はよしといえども、
其の妄行の天真のさわりとなる法をばしりぞけひらかでかなわぬ事なり。
むかし原壌といえる狂者は孔子の旧友なり。
後に原壌、狂見たくましくてしりぞくべき妄行あり。
孔門の諸賢、絶交ましますべきことなりと疑いありけれ共、
孔子、故者母其為一レ故也とのたまいて
終に交わりを絶ちたまわず、交わりを絶ちたまわざれ共、
原壌夷俟〔いしてまつ〕ときは為賊〔ぞくなす〕とのたまいて、
つきたまえる杖にて原壌を脛〔はぎ〕をたたきていましめ責めたまう。
此の聖行の御本意を慎んで考え見るに、交わりを絶ちたまわざるは、
吾不中行而与上レ之必也狂狷乎と、
のたまう意なるべし。
脛をたたきたまうは妄行のあやまりをさとらしめ
中行の位へ誘掖〔ゆうえき〕なされんとの不屑〔ふせつ〕の教誨なるべし。
されば、洙泗〔しゅし〕の流れをくめる真儒はこの聖模を憲章して、
釈尊の心をば好〔よ〕みし、其の妄行をばしりぞけひらきて、
霊山〔りょうざん〕の糟粕に酔〔えい〕てたわごとつける沙門を教化して、
儒門艮背敵応の学者となすべきこと、仁民の一端成るべし。





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Last updated  2016年05月23日 15時06分27秒



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