ひな祭り・桃の節句
今日は桃の節句「雛祭り」ですね。女の子のいるご家庭では、桃の花や御雛様を飾っているのではないでしょうか?ひし餅やちらし寿司を食べるのが一般的ですが、地域によってはさまざまだと聞きます。節句の便り、お待ちしています。 また以前、人形店で御雛様を見ていて、右に雄雛・左に雌雛が正しいと思っていました。ところが、逆に飾ってある御雛様を多数発見!!どうしてだか、ご存知ですか? 内裏雛の左右について… 内裏雛は内裏の宮中の並び方を模しています。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位でした。なので、人形では左大臣(雛では髭のある年配のほう)が一番の上位で天皇から見ての左側(私達の向かって右)にいます。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びです。(京都御所の一般公開の時に、ぜひ、確かめてみて下さい。)明治天皇の時代までは、左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立っていました。しかし明治の文明開化で日本西洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は、西洋式に倣い右に立ちました。それから以降、皇室の伝統になり、近代になってから昭和天皇は、何時も右に立ち香淳皇后が左に並ばれるようになりました。又、それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなったそうです。しかし、永い歴史のある京都では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多いそうです。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としどちらでも構わないとしています。皆さんのご家庭はいかがですかひな祭りとは ひな祭りとは、平安時代の京都の風習だった子供の無病息災を願う上巳の節句と、ままごとの遊びが江戸時代初期に融合し、女の子のお祭りになったといわれています。ひな祭りという呼び名は、小さな人形で「ままごと遊び」することを「ひいな遊び」と呼んでいたのが語源。はじめは京都の上流階級の家だけの行事でしたが、しだいに民間の行事となり、やがては地方へと広まっていきます。ひな祭りは江戸時代中期にかけて年々盛んになり、人形やひな壇もどんどん派手になっていきました。当時は等身大の人形をかざったひな壇もあったといいます。ですが、1721年に、ぜいたくな生活を規制する当時の江戸幕府によって、ひな人形の大きさは2cm以下と定められました。 ひな祭りのことを別名で「モモの節句」といいますが、それは当時の旧暦の3月3日は、現在の4月上旬にあたり、ちょうどモモの花も開く頃だったからです。 また江戸時代、ひな祭りの日には、銭湯でモモの葉をお風呂に入れた「桃の湯」に入るのが流行していました。 これからも多くの方と出会えればと思い、ランキングに参加しています。ワンクリックしていただけると嬉しいです。よろしくお願いしますm(_ _)m人気blogランキングへ