長屋王邸跡・平城京左京三条二坊宮跡庭園・北新天満宮(奈良・奈良市)
「平城宮跡(Heijyo-kyuseki)」(世界遺産)から、徒歩10分ほどの所にある、旧奈良そごうの駐車場にひっそりと祀られているのは、「長屋王邸跡(Nagaya-ou-tei-ato)」と書かれた標識と小さな社。4万点という多量の木簡が発掘されたため、住人が特定された初めての例だ。ここは「平城宮跡」の東南の位置にあり、旧奈良そごうの建設予定地であった。何せ奈良は掘ると遺跡が出土してしまう土地柄。しかし、ここは年初めに「長屋皇宮」と書かれた木簡が見つかって以来、半年以上ほとんど何も出土しなかった場所だった。調査区域から外れた建設予定地を機械によっての掘削が行われていたところから、大量の木簡が出土した。急遽、工事をストップさせデパート側に交渉して1週間の日程を確保。そして、とうとう「長屋親王宮鮑大贄十編」と墨で書かれた木簡が発見されたのだ。長屋王というと、729年の「長屋王の変」の渦中の人。そして、ここがその舞台となった邸宅跡なんです。第40代・天武(Tnmu)天皇の孫という正統な天皇継承者で、藤原不比等(Hujiwara-no-Huhito)の死後、政界を主導。文武に秀でていたと言われながら、同じく政界を二分していた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)と次第に対立していく。やがて謀反の疑いをかけられ、妻子ともども恨みを抱きつつ自害したという、あの長屋王である。この木簡から読み解けるのは、「親王」…天皇の兄弟・子供。 「大贄」…天皇食べ物。当時既に大きな権力を握っていただろうことが推測される。他に出土した木簡から、犬・馬・鶴を飼育していたことも分かっていて、それぞれ飼育係がつけられていて、役職の1つだったようだ。また、犬や馬の餌に貴重な米を与えていたことからも最上級の貴族生活が伺われる。その他にも、夏場には氷を運ばせていたり、牛乳を飲用していたりと、当時の様子が見て取れる。だが、残念な事に折角発見されても、埋め戻され建設されていく。こうして「平城京」の遺跡は、発掘と同時に開発によって消滅していった。開発当時は、奈良そごうだった。その後、イトーヨーカドーになったが、それも現在撤退しているので人通りもなく閑散としている。さて、その旧イトーヨーカドー大宮通側の南側にあるのが、こちら。「平城京左京三条二坊宮跡庭園(Heijyo-kyo-sakyo-sanjyounibo-kyuseki-teien)」(特別史跡・特別名勝)。この長ったらしい名前は、かつての番地を示している。「平城宮跡」から、この旧イトーヨーカドーを挟んでいるので知名度はほとんど無いに等しい。しかし、開発計画を変更して保存された非常に稀なケース。奈良時代にさかのぼる本格的な庭園遺跡で、露出展示されている貴重な施設でもある。廃川跡を利用した深さ20㎝、幅15m、長さ55mの曲池になっている。東側を流れる菰川から導水し、浄化施設を通った水が北から南に蛇行してゆっくり流れるように設計されている。しか~し!復原工事中で中がよく見えない。中を覗くと。玉石が敷き詰められている様子が見える。 これで見ると、組立柱建築物がいくつか立っていたようだ。唯一、復原されている復原建物。庭園を観賞するための建物だったようだ。来春、イトーヨーカドーが、「ミ・ナーラ」という観光型複合商業施設に代わるらしい。2020年に修復工事が終了するということで見に行ってきました。お~、見える見える!掘立柱建物の内部も見学できます。奈良時代の貴族たちは、ここから庭園を優雅に眺めていた事でしょう。「平城宮跡」の南側にある、こちらも小さな神社があります。石柱には「北新天満宮」と書かれてありますが、由緒書きの類が一切ありません。また、調べてみましたがあまりにも知名度が低いためか、わかりませんでした。「1603年に周辺の村の成立に合わせて創建された」旨の記述のみでした。狛犬さん達。吽の狛犬さんの方の右足には、子狛犬さんがへばりついていました。 天満宮なので、臥牛像があります。本殿。 いよいよ、「大立まつり」が始まります。 (2018年1月下旬現在)