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カテゴリ:史跡・遺跡めぐり
国道24号線を走っていると巨大な古墳の横を通過します。佐紀盾列古墳群(Saki-tatanemi-kohun-gun)の1つ「宇和奈辺古墳(Uwanabe-kohun)」です。
4世紀後半~5世紀にかけて、まるで権力を競うようにして平城山丘陵の南麓一帯に造られました。何とその数、大小合わせて約20基。そのうち、200mを越える物は7基あります。この古墳群は大きく東群と西群に分かれていて、今回は造られた時代が新しい方の東群を巡ります。 この佐紀盾列古墳群は、ほとんどが前方後円墳の形をしていて、一周グルリと周濠で囲まれている。 その中でも、1番大きな物がこの「宇和奈辺古墳」である。それでも、日本で13番目、墳長260m。中規模になるのだそうだ。 これだけ大きいのに、誰が埋葬されているのかわからないという。「うわなべ」とは、「後妻」の意味なのだそうだ。意味ありげです。 ここからでは気付かないが、空の上から見ると、国道24号線によって少し堀の部分が削られてしまっている。 遊歩道が古墳に沿って続いている。道なりに歩いて行くと、向こうに「小奈辺古墳(Konabe-kohun)」が見えてきた。丁度、この2基はほぼ平行に並んでいるのだ。 「宇和奈辺古墳」の南側を歩いていると、大きな木に挟まれた小さな祠を見つけた。一端、遊歩道から下りて、住宅街から見上げてみた(住宅の方が古墳よりこれだけの段差の下に広がっている。)。丁度、古墳の南側に面した真ん中辺りにあり、遥拝所のような感じ(違うかもしれないけど)。 もう一度、遊歩道に戻り、「宇和奈辺古墳」を見ると、遠くに若草山が見えた。 間に自衛隊幹部候補生学校があり、ミサイルや飛行機が展示されているのが、柵越しに見える。 さて、「小奈辺古墳」に来たが、残念ながら古墳って地上で見ても全く違いがわからない。大きくて立派なほど、サッパリわからない。ちなみに、「宇和奈辺古墳」より少し古く、少し小型の前方後円墳(日本で34番目の大きさ)。こちらも誰の墓かわからないとのこと。「こなべ」とは、「正妻」という意味。うわ、これまた、意味深。 そのまま、遊歩道沿いを北に向かう。隣接してあるこの「ヒシアゲ古墳」は、立て札が示す通り宮内庁の管理下にある。 平城坂上陵(Narasaka-no-e-no-misasagi)とされ、第16代・仁徳(Nintoku)天皇の皇后である「磐之媛命陵(Iwa-no-hime-no-mikoto-misasagi)」と治定。 ここから見ると、先ほどの古墳のような幅のある周濠ではないが、睡蓮の葉がたゆたう水堀になっている。 実は、この南面の部分だけが二重周濠になっていて、この奥にグルリと廻る周濠がある。こちらも200mを越える前方後円墳で、日本で24番目の大きさを誇る。 夫の仁徳天皇が磐之媛の不在中に浮気をしたため怒り狂い、難波高津宮には戻らず、この南山城に住まいそのままそこで亡くなったという。そのためか、夫婦なのに陵墓が堺と奈良でかなり離れている。死して尚、一緒に居たくなかったのだろうか。 水上池の畔に立つ歌碑。 “ 女郎花 佐紀澤に生 ふる花かつみ かつても しらぬ戀もす るかも ” 石畳の遊歩道が所々に続く。大量の羽虫が巨大な虫柱を作って、私の周りを取り巻いてくる。本当にここは県庁所在地である奈良市なのかと疑いたくなるよ。 羽虫を振り切り、やっと開けた場所に出た。向こうに見えるこんもりとした森が、今見てきた「磐之媛命陵」だ。 「ケーンケーン」。お!!雉が鳴いた。 今度は、南に下る。途中、「葛木神社(Katuragi-jinjya)」というこじんまりとした神社に立ち寄った。一の鳥居は南を向いているが、参道がL字形に折れている。 手水舎。 一の鳥居の真正面にあるのは、「大日如来堂」。 東に向かって、二の鳥居と拝殿がある。 ご祭神:葛城一言主大神。 元は、仁徳天皇が磐之媛命の偲んで建立されたという。この鳥居は、水上池を挟んで丁度「小奈辺古墳」に向いている。現在、宮内庁が治定している「磐之媛命陵」とは、少し位置がずれるのだ。 狛犬。 拝殿の真正面に本殿があり、その右隣りには「厳島神社」。 ご祭神:市杵島姫命(Itikisima-hime-no-mikoto)。 南にそのまま下っていくと、またまた古墳にぶち当たる。この「市庭古墳(Itiniwa-kohun)」も宮内庁の管理下にあり、「楊梅陵(Yamamomo-no-misasagi)」とされ、第51代の天皇である「平城天皇陵(Heizei-tenno-ryo)」に治定。 以前の発掘調査の結果、「小奈辺古墳」より少し古い、5世紀前半の周濠を伴う前方後円墳だったことがわかった。しかも、「宇和奈辺古墳」に次ぐ大きさだったという。現在、後円墳部分しか残っていない。 というのも、710年に「平城京」がこの地に遷都されてきたからだ。通常、都が遷都されてきた場合、元々あった建築物は破壊されてしまう。何と、死者を埋葬していた墓である古墳も例外ではなかったことになる。この場所は、丁度「大極殿」の真北に位置する外せない場所だったのだ。(「海龍王寺」が残ったのは、ほんとに奇跡に近いのかもしれない。) ここにきて、おや?と思ったのが、第51代の天皇の墓とされていることだ。平城天皇は、「平安京」を遷都した第50代・桓武(Kanmu)天皇の息子である。「平城京」が遷都された時、陵墓は既にこの地のあったのだ。おかしいではないか。私は、「平城」の諡号が付いているので、てっきり奈良時代の人物だと思い込んでいた。 調べてみると、都が出来る時にはこの古墳は、もう誰が埋葬されているかわからなかったようなのだ。平城天皇は、在位わずか3年で弟である第52代・嵯峨(Saga)天皇に譲り、自らは旧都「平城京」に移り住んだ。にもかかわらず、嵯峨天皇の政治にちょっかいを出し、もう一度都を「平城京」にと画策したのだそうだ。そのことからも、この古墳を再利用し平城天皇を葬ったのかもしれない(そんな事あるかな?あるいは、他の場所に葬られたか?)。 「平城宮跡(Heijyokyu-seki)」(世界遺産)に9年の歳月をかけて復元された「第一次大極殿」。 天皇の住まいである内裏の柱位置には、刈り込まれたツゲが植えられている。 (2016年9月下旬現在) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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