パワースポット神社紀行
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2015.09.21
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大国神社ー日本一の大黒様のある神社ー妙義山の山麓に日本一の大黒様がある神社を見つけた。大黒様は、金ぴかで確かに大きい。神田明神の大黒様よりも大きい。ただ、最近、作られたようで、人寄せの目的がみえみえであったが。が、神社の古めかしい本殿は、何か感じるものがあり、参拝した後もしばらく立ち去りがたかったのを覚えている。大黒様とは、大国主命のことだが、もともとはインドの神様である。大黒(だいこく)と大国(だいこく)の発音が同じで、日本に入ってきて同一の神になってしまったらしい。大黒様の背負っている袋には、金銀財宝が入っていると思われるが、大国主命が背負っている袋は、兄達の荷物がはいっていたのだ。いわば兄達のかばん持ちのような存在だった。(古事記による)この大国主命は、スサノオ命の直系で、孫とも数代あとの子孫ともいわれている。出雲大社が一番有名だが、東京の神田明神や大宮の氷川神社にも奉られている。ただ、やはり打出の小槌を持って、大きな袋を抱えている大黒様は、七福神の中でも一番人気の神様であろう。私も何回も拝んでしまったのだった。英明
2011.05.06
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生島足島神社ー日本列島の御魂を奏しする神社ー所在地:長野県上田市下之郷中池西ご祭神:生島大神(いくしまのおおかみ)、足島大神(たるしまのおおかみ)太古より国土の鎮守として仰がれる信濃の古社。ご祭神は、生島神と足島神。この神のお話は古事記の国生み神話による。イザナギ神とイザナミ神がの二柱の神が、天の浮橋(天地の間にかかる橋)から天の沼矛(あめのぬぼこ)の先を下に向け、コロコロとかき混ぜたところ、矛を引き上げると、矛先からしたたり落ちる塩水が島になったというお話だ。この国生みによって、八つの国(島)が生まれた。それは大八島国(おおやしまこく)と呼ばれた。日本列島の古い呼び方である。八つの島とは、本州、九州、四国、淡路島、佐渡島、隠岐の島、対馬、壱岐の島だ。北海道は入っていない。この大八島に宿ったのが、生島神と足島神であるとされている。生島神のイクは、生成・発展、足島神のタルは、満ち足りて繁栄することを意味する。日本の国土の真ん中に鎮まり、国中の発展と繁栄をつかさどる守護神である。神代の昔、建御名方富命(たけみなかたのみこと)が、諏訪の地に向かわれる途中、この地にお留まりになり、2神を奏ししたというのが、当神社の由緒である。話が変わるが、今回の東日本大地震。私達は、1000年に一回の大地震に出くわしたわけだが、日本列島が、7mも東へ動いたという。本当に大八島が、動いたのだ。日本の戦後は、敗戦から発展と繁栄の時代を経て、バブル崩壊。日本は安全と水は、ただと言われていたが、両方ともそうではなくなった。この神社の境内に家族幸せの御神木があるのだが、最近の家族内での殺人事件などなど、日本人の心まで、変わってしまったのか・・・。東京都知事が、この地震は、天罰であるとまで言っていたが、一理あるかもしれないのでは。日本国土の守護神である、生島神と足島神が、この地震によって、現代の日本に何事かを言わんとしているのでは、ないだろうか・・・。英明
2011.05.05
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妙義神社ー妙義山の山腹にたたずむ1500年前の古社ー所在地:群馬県甘楽郡妙義町妙義6ご祭神:日本武尊、豊受大神、菅原道真奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生い茂る景勝の地である。創建は、537年とあるので、約1500年の歴史のある神社だ、総門をくぐると、高さ10m程の石垣。これは、城跡か・・・・。大きな灯篭の後ろには階段。登っていくと、地元のボランティア・ガイドのおじさんが、鳥居の下ですわっている。「ここは、城跡ではないよ。階段の下が寺で、鳥居から先が神社だったのさ」という。明治以前の神仏混合時代のなごりだろう。江戸時代は、歴代将軍の崇敬厚く、宮様の宿坊にもなった。なるほど、建物の各所の花弁16枚の菊の御紋がある。天皇家と関係が深い証拠である。この神社では、テレビの撮影も多く、先週は人気テレビ番組の「仁」の撮影もあったそうだ。そういえば、医者の南方が、江戸の町を丘の上から望む場面があるが、ここがその場所か・・・。今時分は、参拝者も多くないので撮影には絶好の場所なのかもしれない。御利益は、開運、商売繁盛、学問、縁結びなど。日常から離れ、静かに過ごすには良い所だ。但し、車でないと不便なので御注意を。英明
2011.05.04
平野神社ー江戸時代から平野の夜桜で有名な神社ー所在地:京都市北区平野宮本町14月10日の桜花祭の前日に訪れた。桜は、満開で、敷地はそれほど、広くはないが昼間から人でごったがえしている。東京のほとんどの桜祭りが、東北の震災で自粛したり、中止になったが、関西では、状況が全く違っていた。やはり、これだけ距離があると、文化も違ってくるはずである。平安中期には、伊勢神宮、上賀茂神社、石清水八幡宮、松尾大社のつぐ、名社に数えられたという。現代では、4月の上旬は夜桜の宴会場だ。近くに北野天満宮もある。境内で、磁石がくっつく不思議な岩が展示されていた。いわゆる磁鉄鉱だろうか。昔の人は、不思議に思い拝んだことだろう。私も試しに、磁石をくっつけてみたが、本当に強力な引きつけだ。機会があれば、人の少ない季節に来てみよう。また、違った雰囲気だろう。英明
2011.05.02
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてらすみたまじんじゃ)ー三柱鳥居で有名な京都のパワースポットー所在地:京都市右京区太秦森ヶ東町504月9日から10日の1泊で、久しぶりに京都の神社とお寺をめぐる旅にでる。まずは、京都の魔界パワースポットの紹介だ。この神社は、古代、養蚕や機織りの技術を伝えた渡来人、秦氏ゆかりの神社なのだ。場所は、京都の東映撮影所がある太秦だ。この辺りに秦氏一族が住んでいたという。なるほど、「太秦」の地名に秦の字が入っている!この神社を有名にしているのは、三柱鳥居という3本足の鳥居だ。元々は、池の上に立っていたといううが、現在は池の水は枯渇している。ここには、古代の太陽祭祀の痕跡があるといい、うっそうとした森の中に鎮座している。当日は、殆ど、参拝者はなく、若いカップル1組と地元の信者らしい中年の女性が参拝をしていた。人が少なかったこともあるが、何か現世から魔界への入り口というか特別な感じがした。さあ、ここから今回のパワースポット神社巡りのスタートだ。つづく。英明
2011.04.29
川越総鎮守 氷川神社ご祭神:スサノオノミコト、クシナダヒメノミコト、テナズチノミコト、アシナズチノミコト オオナムチノミコト古墳時代、欣明天皇2年9月15日鎮座。武蔵国造が大宮氷川神社より分祀。室町時代、川越城築城にあたった太田道灌は篤く、同社を崇敬する。10月16日、17日は、当社の例大祭である川越まつりが行われた。1648年、氷川神社の神幸祭は、江戸の天下祭にならい、催すことがきめられたという。神田明神と日枝神社の天下祭の大行列は、もやは見ることができなくなったが、川越祭りで当時の様子が想像できるのだ。英明
2010.10.19
木花咲耶姫はニニギノミコトと一夜寝床を共にして、夫婦の契りを結ぶところとなった。咲耶姫はめでたく身ごもったことをニニギノミコトに告げると、たった一夜の契りで身ごもったことに不信をいだき、自分の子ではなく誰か国つ神の子ではないかと責めた。現代でも神話の世界でも人間?(神様)の営みは、変わっていないのだろう。そして男女間の嫉妬と疑いの心も・・・。ニニギノミコトが疑うのももっともかもしれない。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、本当の子なら何があっても無事に産めるはずと、産屋に火を放ってその中で火照(ホデリ、海幸彦)・火須勢理(ホスセリ)・火遠理(ホオリ山幸彦)の三柱の子を産んだ。ホデリとホオリは、神話で有名な、海幸彦と山幸彦である。ホオリの孫が神武天皇になる。ちなみに箱根神社は、このニニギノミコト、ホオリミコト、木花咲耶姫の三神をまつっている。天孫降臨(中央がニニギノミコト)英明
2010.09.14
コノハナサクヤヒメノミコトは、「木花開耶媛命」と書く。昨日のブログにも書いたが、富士山の祭神である。この名前の響きとその文字から来る美しさは、比類のない媛神の名前だろう。薄命の絶世の美人というイメージだ。木花開耶媛命は、大山祇命(オオヤマズミノミコト)の娘で、天孫ニニギノミコトに見初められ、父を通してプロポーズされた。大山祇命は、姉の岩長媛命(イワナガヒメノミコト)とともに木花開耶媛命を尊のもとに送ったが、醜女の岩長媛命を追い返し、木花開耶媛命を娶り、一夜を共にした。ニニギノミコトとは、神武天皇の祖父にあたる神様だ。九州の高千穂の地に天照大神の命で天下った神様である。さて、岩長媛命を追い返された大山祇命は、「岩長媛命を追い返し、木花開耶媛命と結婚した天津神の御子の寿命は、木の花のように短いものになるだろう」と申されたという。それで、今日まで天皇家は、代々寿命が長くないのであると古事記に記されている。天津神とは、つまり天皇家のことだ。大山祇命は、国津神といい、元々、この国にいらした神様である。天津神は、天孫降臨で、この国に天下った神様である。前にも書いたが、役人の天下りの語源は、ここにあるのだ。木花開耶媛命とニニギノミコトとの間に一夜の契りでお子ができた。そして、物語はさらに展開していくのだが・・・、今日はここまで。英明
2010.09.13
一昨日の土曜日は、冨士吉田市の北口冨士山浅間神社の行こうと思い、朝8時に車で向かったが、途中で中央高速が30キロ、東名も15キロの渋滞だとわかる。最近は、電車やバスで現地に行くことが多かったので、車で高速を走っていなかった。休日の高速料金割引は、土曜日の朝の渋滞を引き起こしているようだ。急きょ、湘南から真鶴、湯河原経由で箱根に向かう。箱根まで、4時間程かかった。当日は、予定を変え、箱根で一泊。浅間神社への参拝は次回にした。北口冨士山浅間神社は、3年程前に一度、参拝をしている。正面の大鳥居は、交通量の多い通りに面しているのだが、一歩、鳥居を越えると鬱蒼として森林の参道が続く。ここは、冨士登山の吉田口の入り口になっているのだ。江戸時代や戦前までは、この神社にお参りをして、冨士山に登っていったという。いわゆる冨士講だ。この神社のご祭神は、コノハナサクヤヒメ。冨士山の守り神である女神である。当日は、例祭が行われており、多くの人々が参拝に訪れていた。冨士山の麓のこの神社は、都会の神社にはない霊気あふれる雰囲気がある。初めての参拝で、また訪れたいと直感的に感じた神社だった。一泊をした箱根のホテル(グリーンプラザ箱根)の露天風呂からは、冨士山が見られる。ホテルには、中国人も多く宿泊しており、露天風呂にも中国語が飛び交う。今や、日本中のどこの観光地に行っても、中国人と出会わない日はないようだ。翌朝には、ホテルの庭から冨士山の雄姿を写真に撮り、冨士山浅間神社への参拝の代わりとしたのだった。英明
榛名神社昨日、少し書いた榛名神社のおみくじとお守りについて、詳しく紹介しよう。本殿に向かう参道の途中で水琴窟とご神水のある場所がある。そこでは、おみくじは売っていない。参拝の帰りにここに寄ることになる。本殿に着くと、本殿の前におみくじの箱があり、そこで200円でおみくじを買う。このおみくじは、水にひたすと文字が出てくるようになっている。出雲の八重垣神社と同じ趣向である。参拝した後、帰り道の途中で、先ほどのご神水におみくじをひたすと文字が浮かんでくる。大吉とかの全体運、縁結び運、旅行運、学業運などいくつかの項目ごとに文字が出るようになっている。運勢を見たら、このおみくじは、生まれ年の十二支が書いてある箱に返すのだ。私は、運よく大吉。旅行運では、この後、榛名湖に行くようにと書いてあったので、その後バスで湖に向かった。榛名神社は、強運の神社とも云われているので、お守りを買うのも良いと思う。私は、水晶のブレスレットを購入した。お守りを買う参拝者英明
2010.08.30
榛名神社ー巨岩・奇岩のパワースポットと強運の神社ー所在地:群馬県群馬郡榛名町榛名山849ご祭神:火産霊神(火の神) 埴山昆売神(土の神)巨岩・奇岩で知られる巌山に鎮座する、1400年に歴史を有する神社。古くは修験の地とされ、信仰の場のとして守られてきた。空を覆う老杉の下、本殿まで、700mの参道を清流に沿って進むと自然と雑念が消えていく。JR高崎駅から群馬バスで約1時間の日帰りで行ける場所にある。深山の森と清流と滝のマイナスイオンが人を癒し、元気をチャージしてくれる。パワースポットと呼ぶに値する神社である。創建は、用明天皇元年(585年)と言われている。用明天皇は聖徳太子のお父さんだ。中世では神仏習合の修験の地、江戸時代は天海和尚の下、東叡山・寛永寺の傘下の寺になっている。明治の神仏離令により榛名神社という社号に複した。隋神門までは、門前そば屋を営む多くの宿坊が続く。隋神門を越えると1000本杉という老杉の参道が続き、神秘的な雰囲気に包まれる。途中、神仏混合時代の三重塔の前を通る。そして「神橋」を越えるというよいよ神域だ。双龍門と抜け、矢立て杉の前の階段を上っていくと、神楽殿と本殿が見えてくる。ここの神楽は、神代舞とよばれる歴史ある神楽だそうだ。本殿は「御姿岩」の全面に接して造られており、ご神体は御姿岩の洞窟内に祀られているという。本殿の横に額殿(国祖社)が鎮座している。ここには第10代崇神天皇の子、豊城入彦命を祀っている。上野、下野の国造の始祖だ。矢立て杉境内には、夏休みも終わろうとしている金曜日にもかかわらず、多くの老若男女が参拝をしたり、お守りを買っていた。最近のパワースポット・ブームで参拝客も増えているのだろう。神楽殿ご神体のある御姿岩本殿で参拝をした後、おみくじを買う。帰り道の参道途中の水琴窟の前のご神水にひたすと文字が浮かんでくるおみくじだ。見ると大吉であった。そして、生まれ年が書いてある八角形の筒にお返して終わる。また、榛名神社は、強運の神社としても有名だ。軍艦榛名は、第2次世界大戦中、活躍をした戦艦であるが、榛名神社のご祭神を艦内に奏斎していたという。太平洋戦争中、日本の多くの軍艦が海底のもくずに消えていったにもかかわらず、敵の打つ弾丸・魚雷は悉く榛名を外れ、奇跡的に危機を脱したという。残念ながら、昭和20年7月28日の江田島沖の空襲で、総員解散となり、艦員は艦を離れたが、その後、ご霊代はご本社に無事、戻されたそうだ。榛名神社は、初めての参拝であったが、深山の森の気と巨岩・奇岩の圧倒的な存在感、清流のすがすがしさで心を洗われる素晴らしい神社であった。お勧めである。英明
三囲神社所在地:東京都墨田区向島2-5-17ご祭神:宇賀御魂之命(うがのみたまのみこと) 隅田川七福神「恵比寿」「大国神」を祀る三越の三井家の氏神様だ。豪商三井家が江戸に進出すると守護神として崇め、三越の本店屋上にも分霊を祀っている。鳥居をくぐり、境内に入ると狛犬のそばにライオン像が置かれている。これは、三越池袋店に設置されていたライオン像だ。2009年、池袋店の閉鎖に伴い引っ越してきたものだ。三越から移転されてライオン像宇賀御魂之命(うがのみたまのみこと)は、稲荷神社の神様だ。元々は、稲作の神様であった。この神社の名は、三井寺の僧源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠を再建したとき、出土した神像の周りを、どこからともなく白狐が現れ、三回巡り、消え去ったことに由来するという。三囲神社の囲むという字の国がまえの中は、井の字で、三井の名と関係するのか?境内のめずらしい三柱鳥居も三井家の屋敷から移築され、左甚五郎作といわれる大国・恵比寿は、越後屋(現、三越)より贈られたという。江戸の越後屋は、さぞ信心深かったのだろう。めずらしい三柱鳥居境内は真夏ということで、参拝者もすくなくひっそりとしていた。最近、経営が、あまり芳しくない三越だが、さて、彼等の氏神様であるこの神社は、現代も大切にされているのだろうか・・・。帰り際、少し、そんな心配がよぎったのだった。英明
2010.08.26
今戸神社所在地:東京都台東区今戸1-5-22ご祭神:応神天皇、イザナギ尊、イザナミ尊最近、縁結びの神社で、超人気のスポットだ。8月中旬に訪れたが、気温35度の暑い日中にもかかわらず、10代、20代の多くの若い女性たちが、参拝の列をなしていた。本殿前の境内でも、数十人の女性やカップルがたむろしている。この人気は、江原氏の本で紹介され、テレビや雑誌で取り上げられているからだろう。由緒書では、この神社は、元、今戸八幡宮といわれていたそうだ。八幡宮なので応神天皇を祀っているのだ。それでは、縁結びの神、イザナギ尊、イザナミ尊は、いつから祀られているのか?それは、昭和12年(1937年)、イザナギ尊、イザナミ尊を祀る、近隣の白山神社と合祀され、今戸神社に改称されてからだそうだ。だから、縁結びの神様としては、まだ新しい神社なのだ。鳥居を抜け、境内に入るとまず、目に入ってくるのだが、数え切れないくらいの招き猫の絵馬である。この絵馬は2種類あり、最初の縁結びのお願いをする時が、服をきていない猫の絵馬、お願いがかないお礼をするときには、服を着た猫の絵馬を奉納するようになっているとか。服(福)があったとは、うまいシャレかもしれない。ここ、今戸の地は、昔、今戸焼という焼物の産地で、招き猫の焼き物を作っていた。それで今戸神社でも招き猫の絵馬があるのだ。招き猫の発祥の地は、豪徳寺と思っていたが、どうなのだろうか。豪徳寺にも多くの招き猫の焼き物が奉納されていたが・・・。いつか、調べてみよう。ここの神社の神主さんは、女性の方で、男女独身の若者のお見合い会も神社で定期的にやっているという。たぶん、商売の上手が方なのだろう。やはり、神社も参拝してくれる人がいなければ、成り立たないのだから、色々なアイディアで参拝者を増やすことは、大切かもしれない。都心でも由緒ある神社なのに参拝者が少なく、気が感じられない神社も多いので。今戸神社には、今回のブームが去った後も、参拝者が減らないよう頑張ってもらいたいものだ。英明
2010.08.25
昨日のブログで、私の母方の苗字を紹介したが、姓によって関係する(参拝すべき)神社があるのだ。たとえば、佐藤さん、伊藤さんなどの藤の字がつく苗字は、藤原氏と関係しているという。平安時代の貴族の名である。始祖は、藤原鎌足である。元々は、中臣鎌足といった。藤原氏の氏神は、奈良の春日大社である。色々な説があるが、藤原鎌足の出身地は、常陸の国の鹿島だといわれている。実際に茨城県鹿島市の城跡に鎌足神社が鎮座しているのだ。私も一度、訪れたことがある。春日大社は、鹿島神宮のご祭神であるタケミカズチの神を奈良の地に移した言われている。現在の鹿島神宮の境内にも、神鹿が飼われているが、ここの鹿を奈良の地に連れて行ったのが、今の奈良公園の鹿の起源という。苗字に藤の字がつく人は、ぜひ春日大社と鹿島神宮を訪れてみてほしい。英明
2010.08.16
私が、神社と神道に興味を持ったのは、ある出来事からであった。それは、数年前、友人から紹介されたオーストラリアに在住する日本人の女性占い師から「母方の先祖が徳が高かったので、私が守られている」と言われたことだった。早速、母の田舎に行き、家系図を見せてもらった。母の母である祖母の出は、舘(たち)という姓で、親戚には橘(たちばな)という姓の家があった。橘は、源氏、平家、藤原に次ぐ4大姓の一つである。その母方の親戚が、現在も福島県の山間部で天台宗のお寺の住職をしている。現在は、天台宗になっているが、元は修験宗のお寺だ。本山は、京都の聖護院だ。修験とは、「山伏」と言えばわかるだろうか。この地は、田村郡と呼ばれている。田村郡の田村とは、「坂上田村麻呂」の田村からきているという。田村麻呂は平安時代、桓武天皇の命令で、東北の蝦夷征伐を行った征夷大将軍である。その田村麻呂に随行した8人の法印(位の高い山伏)の一人が、母方の先祖と言う。田村麻呂が、蝦夷地に向かう途中、この地で陣をしいたので、その地名が残っているらしい。舘家の墓は、鳥居型になっており、戒名も~命(みこと)となっていた。仏教式ではなく、神道式なのである。はじめて見たお墓の形であった。 つづく英明
龍と言えば、箱根の九頭龍神社だろう。縁結びの神様として若い人に人気のスポットだ。箱根神社と九頭龍神社は、何度も訪れているが、この7月も参拝をしてきた。九頭龍神社、新宮神社の由来は、社傳によると「その昔、人民に被害を与えていた毒龍に対し、萬巻上人が湖中に石壇を築いて調伏の祈祷を行ったところ、毒龍 は形を改め、寳珠并に錫杖を捧げて帰依し、龍神となりました。今では、多くの人々に開運隆盛はもとより金運守護、商売繁盛、縁結びの龍神様として崇められています。」となっている。以前、伊豆山神社を紹介したが、伊豆山神社も龍神と関係しており、箱根の山から熱海まで龍脈が走っているという。その龍脈の出口が、熱海で、本当に熱海の海は、昔、海から温泉がわいており、「熱い海」だったそうだ。(伊豆山神社の宮司のお話による)すると龍脈というのは、火山性マグマか温泉の流れなのか。いずれにせよ、温泉は万病に効くのであるから、生命体にとっては良い効果を及ぼすのかもしれない。古事記などの神話や昔話は、おもしろおかしく科学的にありえないような内容が多いが、その基になるなんらかの事実があるような気がするのだが・・・。英明
2010.08.13
今日は前回のブログで紹介した秩父神社の青龍(せいりゅう)について、話を続けよう。この青龍の彫刻は東北の方向を向いている。そう、風水で東を守るのが青龍だ。ちなみに西は白虎(びゃっこ)、北は玄武(げんぶ)、南が朱雀(すざく)である。風水で龍とは気の流れを表すとか。人の健康は血の流れ、自然は気の流れが重要だと・・・。秩父神社の青龍横綱の朝青龍(あさしょうりゅう)は、この青龍から名前をつけたのだろう。強いはずである。朝赤龍という関取もいると思うが、あまりぱっとしない。やはり、龍は青でなければならない。今人気の大河ドラマの坂本龍馬もこの龍の字がつく。陰陽道では東北の方向は、表鬼門、南西の方向は裏鬼門といわれ、京都では、京の御所から東北の方向の比叡山に延暦寺を建て、鬼門の守りとした。太田道灌は、風水学から関東の江戸に江戸城を築いたそうだ。それを引き継いだのが徳川家康だ。その参謀役の天海僧正が、江戸の表鬼門の東叡山(上野の山)に寛永寺を建て、徳川家の菩提寺とした。東叡山とは、東の比叡山のこと。私の母校である都立上野高校は、上野のお山の芸大の隣にあるが、その校歌にも♪東叡山の丘の上、そそりて立つはわが母校・・・♪となっている。江戸を引き継いだ東京がここまで、発展したのは、やはり風水のおかげか?青龍から話がそれてしまったが、昔の人の方が、自然と環境について、現代人よりもずっと精通していたのではなかろうか。英明
2010.08.12
秩父神社ー知知夫の国の総鎮守ー所在地;埼玉県秩父市番場町1-3ご祭神:八意思兼命(やごころおもいかねのみこと) 知知夫彦命(ちちぶひこのみこと) 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)秩父神社は、毎年12月3日の夜に行われる秩父夜祭で有名な知知夫の国の総鎮守だ。元々、秩父は、知知夫の国と呼ばれていた。私も夜祭りは、数年前に行ったことがあるが、日本の三大曳山祭り(他に京都祇園祭、飛騨高山祭り)のひとつで、夜空の花火の下で、引かれる曳山は豪華絢爛だったのを覚えている。秩父神社は、10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任ぜられた知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神である八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)をおまつりしたことに始まる。思兼命については、以下のような神様だ。「須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴な行いを悲しまれた天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまわれ、たちまち世の中は、まっ暗闇となり、沢山の災いが起こりました。そこで八百万(やおよろず)の神さまを集め、天照大御神を天岩戸からお出しする一計を案じ、見事に成功させた。その活躍により知恵の神さまとして信仰されています。」この神社の本殿には、いくつかの左甚五郎作の彫刻が施されている。そのひとつが、「つなぎの龍」である。その昔、夜な夜な近くの池に現れたために鎖で繋ぎとめられたという伝説が残っている龍なのだ。つなぎの龍次が、「お元気三猿」。日光の東照宮では「見ざる・言わざる・聞かざる」とされているが、秩父神社では、「よく見て・よく聞いて・よく話す」3猿が彫刻されている。現代にも通じる三猿だ。お元気三猿その他にも「子宝・子育ての虎」や「北辰のふくろう」などの彫刻がみられる。夜祭りの日は神社の境内も人でごったがえしているが、その他の日であれば、ゆっくりと見学ができる。秩父に観光の折は、西武秩父駅からも徒歩圏内なので、参拝をお勧めしたい。英明
2010.08.11
学校時代に古代ギリシャのホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデュッセア」の話を聞いたことがある方も多いと思う。イリアスは、トロイア戦争を描いたもの。数年前の「トロイ」という映画を覚えている方も多いかも。「トロイの木馬」で有名な古代都市トロイとギリシャ連合軍の戦争物語だ。そのトロイア戦争で活躍するのが、有名なアキレスだが、一方でギリシャ軍きっての知将がオデュッセウスで、トロイア戦争で抜群の戦績を収める。そのオデュッセウスの10年に渡る帰国の冒険譚が「オデュッセア」だ。帰国の途中で、海神ポセイドンに恨まれて航路の邪魔をされ、延々10年間の冒険譚が繰り広げられる。実は、今日、その「オデュッセア」を描いたDVDを見たのだ。(映画名:オデュイツセイア魔の海の大航海」。3時間の歴史大作だった。一つ目の巨人との戦い、魔女キルケの国と冥界、太陽の女神カリュプソの島での暮らしなどなどの大冒険。ついには、出雲神話のヤマタノオロチのような頭がいくつもある巨大な龍との戦いも出てくる。魔女の国では、5日しかたっていないのだが、現実の世界では5年もたっていたというのは、浦島太郎の竜宮城のお話と同じストーリーだ。久々に楽しめるビデオを見たのだが、それにもまして、日本の神話とギリシャ神話にこれほどまでに同じような話がでてくるとは・・・。欧米の文化は、ギリシャ文明とキリスト教がベースになっている。その両者を理解していないと欧米人もその文化もわからないという。同じことは、日本の文化にも言えるのではないか。古事記や日本の神話を知らなければ、日本人の精神やその文化は理解できないだろう。神社には参拝に行くが、誰を祀っているかも知らない日本人が多いのが現状だ。戦後の負の遺産は、伝統的な日本人の精神の喪失ではないだろうか・・・。最近の家庭内や学校での問題や事件も、そこに起因していることもあるのではないか。ここで欧米文化一辺倒であった戦後の教育を再考する必要があると思われるのだが・・・。英
2010.08.10
三峯神社ー奥秩父の気のパワーを発する修験道の古社ー所在地:埼玉県秩父市三峰298-1ご祭神:イザナギノミコオト、イザナミノミコトいつか訪れたいと思っていた秩父の三峯神社に昨日、8月8日に参拝をする機会を得た。なぜか、いつかは行かなくてはと思っていた神社だが、その理由は行ってからわかったのだった。最近は、はやりのパワースポットとしてマスコミでも紹介されているようであるが、それ以上の素晴らしい神社が、東京から2時間程の場所に鎮座していた。秩父鉄道のお花畑駅から、三峰口へ20分。バスに乗り換え、奥秩父の奥深い緑の山々を登っていく。昔は、大輪からロープウェーで行けたそうだが、今は廃止されてしまった。45分程で、三峯神社に到着。気温は、平地より2,3度低いのでは思われるほど、涼しい。標高1100mあるのだ。駐車場から4,5分登ると三ツ柱の鳥居が見えてきた。この鳥居はどこかで見た記憶が・・・。そうだ、奈良の大神神社の元伊勢にある三ツ鳥居だ。その鳥居の前に狛犬?それは、犬ではなく狼なのだ。狼は、三峯神社の守護神で大口真神(おおぐちまがみ)として祀られている。以前、訪れた奥多摩の御岳神社もそうであった。秩父地方には、そのような神社が多いらしい。本殿に続く参道しばらく歩くと、ヤマトタケルの像が見えてくる。この三峯神社を創建した、景行天皇の皇子で東国への遠征の途中にこの地を訪れ、イザナギ、イザナミノミコトを祀ったのだ。ヤマトタケル像しばらくすると隋身門が見えてくる。これが本殿ではないかと思われる程、装飾の素晴らしい門だ。隋身門を越えると、より素晴らしい色鮮やかなな彫刻に飾られた本殿が見えてきた。隋身門本殿本殿の前には、2本の御神木があり、その前の立て札には、「3回、深呼吸をし、幹に手をかざして願いごとをするとかなう」と書いてある。「気」の御神木だ。実はこの木は、鎌倉時代の武将であった畠山重忠のお手植えの木なのだ。参拝に来た人々は、幹に手をあて、願い事をしている。ご神木三峯山は、古来、修験の山として有名で、1500年代には天台修験の関東総本山となり、京都の聖護院の傘下になっている。実は、私の縁者が福島県で天台修験宗の住職をしており、まさに聖護院が総本山なのだ。三峯神社に惹かれた理由は、このことだったのか・・・。明治以前は、神仏混合であり、三峯神社も明治2年に寺院を廃して、神社になっている。三峯神社には、宿泊施設があり、温泉もあるのだ。「神の湯」と書いてあったが、近くの大滝温泉から引いているらしい。泉質はアルカリ性で、肌がつるつるになる温泉だ。参拝後、温泉で、汗を流して、下山のバス停に向かった。英
2010.08.09
須佐神社ースサノオノミコト終焉の地ー所在地:島根県出雲市佐田町ご祭神:須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田比売命(イナダヒメノミコト)、足摩槌命( アシナヅチノミコト)、手摩槌命(テナヅチノミコト)出雲神話の英雄スサノオノミコトを祀る由緒ある神社。最近では武勇を誇るスサノオノミコトの集中力や精神力を授かる強いスピリチャルパワーの源として、出雲大社と並ぶ人気スポットになっている。出雲大社から車で向かったが、思いのほか山の中で、1時間程かかった。須佐神社は、江原氏のおすすめのパワースポット神社とのことで、最近、脚光を浴びている。特に若い女性の参拝客が増えているという。正直いって、予想外に小さな神社なのだが、当日も数人の女性たちが参拝に来ていた。出雲国風土記によると、スサノオノミコトが「この国は小さき国なれど国処なり。故れ、わが御名は木石には著けじ。」と云われ「やがて己命の御魂を静め置き給ひき。然してやがて大須佐田、小須佐田を定め給ひき。故れ、須佐といふ」と述べている。現在の佐田町須佐の地名の語源である。スサノオノミコトはこの地で一生を終えられ、御魂を鎮めたと云われる。神社本殿裏の樹齢1200年の大杉。周囲6m、高さ35m。この木もパワーを発しているという霊木だ。須佐神社には七不思議といわれるものがある。そのひとつの塩の井。この井戸は塩水で、スサノオノミコトがこれを汲み土地を清めたと云う。また、出雲大社に近い「稲佐の浜」とつながっており、湧出に間渇があるのは日本海の潮の干満と関係があるという。試しに井戸の水を飲んでみたが、塩辛いという感じはしなかった。塩井(しおのい)周辺にも見所が多い神社のようであるが、時間の関係で神社のみ参拝をして玉造に向かったのだった。英
2010.07.30
出雲大社には、6月20日に訪れた。通算、4回目になる。出雲大社については、色々な雑誌でも紹介されているので、改めて説明する必要もないと思うが、日本一の縁結びの神様、大国主命を祀っている。ここでの最小限、必要な知識は、参拝は、二礼二拍手一礼ではなく、「二礼四拍手一礼」であることか。正面鳥居を越えて、参道を進んでいくと小さな神社が現れてくる。この神社は「払戸神社」と呼ばれ、本殿で参拝する前にお参りすべき神社だそうだ。お忘れなく!本殿の続く松並木当日は、生憎、本殿の修復が行われており、幕が張られていたのは、残念。ここでは、伊勢神宮と同じように一定の「志」を払えば、特別参拝として、一般の人が入れない神域で参拝することができるのだ。但し、私も伊勢神宮では経験済だが、この出雲大社ではまだ未経験だ。この日は、いずれにしろ、本殿の修復期間中だったので、無理だあったが。地面の赤い丸は、古代出雲大社の本殿の柱の跡。最近の発掘で発見された。地上40数メートルの日本一の高層建築だったという。英
2010.07.08
美保神社ーえびす様の総本宮ー所在地:島根県八束郡美保関町鎮座御祭神:事代主神(ことしろぬしのかみ)、三穂津姫命美保神社は、ゲゲゲの鬼太郎の町おこしで有名な境港から車で15分程、島根半島の最東端にある神社だ。境港は、今、NHKの連続小説「ゲゲゲの女房」の放映で、多くの観光客が訪れている。御祭神の事代主神は、大国主命の第一の子神で、三穂津姫命は事代主神の御妃神だ。美保の地名は、この三穂津姫の名にゆかりがあるとも言われている。事代主神は、漁業・海上安全の神だが、近世は「福神」として、釣りざおを手にし鯛を抱いた恵比須様の総本宮となっている。出雲大社とともに「えびす(恵比須)、だいこく(大黒)」と並び称され、大社だけの参拝では「片参り」とされ、大社に参拝する人々は、当社にも参拝する風習があるという。ただ、出雲大社程、一般に知名度が薄く、車でないと行きずらい場所にあるので、両社を参拝する人は、最近では、それほど多くないとおもわれる。私が、参拝した日も神社は、ひっそりとしずまり、他の1グループ以外はだれもいない状況であった。本殿は、美保造りと称される古社で、本当に荘厳な雰囲気がある。島根に行かれた方には、是非、訪れてもらいたい神社のひとつだ。ここで、古事記から、この神社の由来を紹介しよう。事代主は、大国主を助けて、国土の経営をされていたが、天孫降臨に先立ち、タケミカズチノミコトが、出雲の稲佐の浜に降り立ち大国主に国譲りを要求された。その時に事代主はこの美保崎で釣りをされており、大国主から国譲りについてお尋ねがあった。「かしこし、この国は天つ神の御子に奉り給え」と言い、海中に青垣根を作り、天逆手(あまのむかえで)をうっておこもりになったという。この天逆手が、後世の手打ち(手締め)の起こりとなったとされている。稲佐の浜私も本殿で参拝した後、恵比須様の「福種銭」を頂いた。この福種銭は、無料で頂けるが御利益があったら、いったんお返しをして、また新しく御借りするのが習わしだそうだ。(お種を新しくするという)静かな漁港にたたずむ美保神社、出雲大社を参拝された方には、お勧めしたい神社だ。英
2010.07.06
6月19日、出雲大社前の竹野屋の泊まる。竹内まりあの実家で、130年の歴史がある老舗旅館だ。いつか、また、出雲大社の参拝する機会があれば、是非、泊まりたいと思っていた旅館だった。夕方、車で旅館に着いた。なるほど、木造2階建ての由緒ありそうな建物である。玄関に入ると若い少し太り気味の男性が向かえに出てきた。ただ、出迎えの挨拶がちゃんとできていなく、???と思った。一階は、畳敷50畳以上はありそうな広間である。フロントには、誰もいない。その男性が、抹茶と茶菓子をだしてくれた。よくみると、畳が本畳でなくビニール製のようだ。部屋に入り、すぐに風呂に行く。風呂場に入ると鏡が一つもない。ひげをそるのも勘である。手洗いもよごれていた。お湯も熱く、長くは入れなかった。食事は、一般的な料理であったが。廊下をすれ違う従業員の挨拶もまったくない。この旅館に入ったときの勘があたったようだ。いわゆる老舗の旅館だが、設備面のフォローができていないようだ。それだけなら、しょうがないかもしれないが、従業員の挨拶やトイレの清潔さまで問題があるようだ。私の好きな竹内まりあの実家ということで、あこがれていたのだが・・・。これも時代に流れなのか、経営上の問題があるのか。このような老舗旅館が日本中にあるのかもしれない。時代の流れについていくのは、大変なことだ。ただ、やはり、竹野屋には頑張ってもらいたい。100年以上の間、出雲大社に参拝にきた多くの旅人のお世話をしてきたのだから。英
2010.06.27
出雲国一之宮 熊野大社所在地:島根県松江市八雲町熊野2451御祭神:スサノオノミコト熊野大社といっても、紀州の熊野大社ではない。出雲国の一之宮だ。659年、出雲国造をして造営されたという。古代では、出雲大社より神階が上位にあったそうだ。加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)が、正式な御祭神だが、スサノオノミコトのことだ。神社の前には清らかな意宇(おう)川が流れ、お参りはそこのかけられた朱塗りの八雲橋を渡る。紀州の熊野大社の大本は、この出雲の熊野大社であるとも言われている神社だ、なるほど、出雲の他の神社にはない、威厳が感じられる。御神徳は、人々の幸せを守り、人々の願いにこたえ、それを叶えて頂く。殖産興業、招福縁結厄除の大神。変わったお守りとして、スサノオが稲田姫に結納のしるしとして送られた「縁結び櫛」が売られていた。英
2010.06.25
神魂神社(かもすじんじゃ)所在地:島根県松江市大庭町鎮座御祭神:イザナミノミコト、イザナギノミコト神魂神社は、八重垣神社から車で5分程の場所に鎮座している。本殿は、日本最古の大社造で国宝になっている。元々、出雲国の総産土大神で、出雲大社よりその歴史は古く、古代出雲の中心地であった。別名、大庭(おおば)大宮。出雲国造の大祖天穂日命(あめほひのみこと)が、この地に天降れてご創建したという。長い石段を登りきると、出雲大社をコンパクトにしたような素朴で雄大な本殿が見えてくる。古代の出雲大社といった雰囲気の神社だ。なぜか、気持ちが落ち着く。近くの風土記の丘の説明員によるとこの神社は、代々、北島家と千家家が国造として奏ししているという。芸術家を生み出している千家家を思い出した。御祭神は、イザナギ、イザナミの神なので、ご神徳は、縁結び、安産、開運などなど。八重垣神社の派手さはないが、歴史を感じさせる良い神社だ。英
2010.06.24
6月19日より21日まで、転地療養も兼ねて出雲の神社を巡ってきました。これから、数日シリーズで、このブログで紹介していきます。6月19日(土)昼過ぎに米子空港に降り立ち、松江の八重垣神社に向かった。以前から一度、訪れたいと思っていた神社だ。まずは、この神社から出雲紀行を始めよう!八重垣神社八岐大蛇退治のスサノオノミコトと稲田姫が新居を構えた地として、縁結びで有名。所在地:島根県松江市佐草町227御祭神:スサノオノミコト、イナダヒメノミコオト(稲田姫命)御神得:縁結び、夫婦和合古事記の物語によると、「スサノオノミコトが出雲の斐の川に来られた時、アシナズチ、テナズチの老夫婦が泣いているのをご覧になり、理由を聞くと、八岐大蛇という八つの頭を持つ大蛇が娘の稲田姫を奪いに来るという。スサノオは、姫を斐の川から7里離れた佐草の郷、佐久佐女の森(現、八重垣神社、奥の院)の大杉を中心に八重垣根を造って姫を隠し、八岐大蛇を退治した。そして、有名な「八雲立つ、出雲八重垣妻込めに、八重垣造る、その八重垣を」という歌を歌われ、夫婦の宮居とし、縁結びの道を開いたそうな。」本殿の後方の奥の院、佐久佐女の森がある。稲田姫が八岐大蛇の難を避けた場所で、大杉を中心にいまでも垣根が残されている。小泉八雲が「神秘の森」というだけあり、本当に古代にもどったような雰囲気のある森である。八重垣根とは、「大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣」という八つの垣根でいまでもその垣根の名が、山の上、中腹、田に残っているという。佐久佐女の森佐久佐女の森の奥にあの有名な鏡の池がある。森に避難中、この池の水をイナダヒメは日々の飲料にしたという。そして、その姿を写されたので、「姿見の池」ともいう。この池は、縁結びの占いの池として、紙片に10円玉か100円玉を載せ、早く沈めば良縁早く、遅く沈むと縁が遅いと言われている。15分以内で沈めば、早いほうで30分以上もかかることも・・・。私も10円玉でやってみたが、なんと2分程で沈んでしまった。隣にいた若い女性たちが、すごいですねと感嘆の声をあげていた。これも神社巡りの神様の御利益か!鏡の池(縁結び占いの池)すまた、この神社は、本殿内のスサノオをイナダヒメの壁画でも有名だ。(重要文化財)近くの出雲風土記の丘の博物館の説明員によると、八重垣神社は本当に縁結びの御利益があるらしい。私も佐久佐女の森は、何か他の神社には感じられないような気を感じた。古代にタイムスリップしたような感じだった。是非、一度は、訪れたい神社だ。英
2010.06.23
体調が悪く、しばらくブログを休んでいました。また、再開しますのでよろしくお願いします。6月下旬には、出雲地方を回る予定です。6月、7月とセミナー講師の仕事があり、多忙ですが、頑張ってブログ続けて行きます。英
2010.06.10
鶴岡八幡宮所在地:神奈川県鎌倉市雪の下2-1-31ご祭神:応神天皇、比売神、神功皇后先週末、数か月ぶりに鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れた。鶴岡八幡宮は源頼義が前九年の役が終わった後の1063年に鶴岡の地に建てたものを、頼朝が1180年に現在の地に移し、1191年の大火を経て現在の規模になったという。丁度、今年3月に強風で倒れた大銀杏の行事が催されていた。大銀杏の幹は、途中から切られており、元の場所から数m離れた場所に移植されていた。幹周7m、樹高30m、樹齢1000年で県指定の天然記念物になっていた銀杏だ。このイチョウは、「隠れ銀杏」ともいわれている。1219年鎌倉幕府最後の将軍である三代源実朝を暗殺した公暁が、この木の陰にかくれていたと言う伝説からこの名前がついている。鶴岡八幡宮にとっては、歴史の生き証人のような存在だった。地元の子供たちによって「頑張れ大銀杏」の立て看板のもと、神職の先導により行事が行われていたのだった。丁度その時間に、境内の舞殿で結婚式が執り行われているの見つけた。よく見ると「ヒデとロザンナ」のロザンナが和服を着ているではないか。実は、その結婚式はロザンナの息子の結婚式であったのだ。ロザンナの隣にいるのは、娘さんだろう。ヒデにも良く似ている。(20代、30代の人は知らないかもしれませんが、ヒデとロザンナは、3、40年程前、一世を風靡したデュエットの歌手で、ロザンナはイタリア人です)最近は、神社で結婚式を挙げる人が増えているそうだ。先日も明治神宮での挙式に出くわした。案内で聞いてみると今年の週末は、すべて式の予約が入っているそうだ。若い人が、神社での結婚式をきっかけに日本の伝統や神道に触れることは、良いことであると思う。戦後の欧米化一本やりから伝統文化の見直しが起こっているのかもしれない。英
2010.05.18
神道では、神の霊魂は四つの側面を持っているという。それが、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)、奇魂(くしみたま)、幸魂(さちみたま)だ。和魂は、神のやさしく平和的な側面。荒魂は、神の荒々しい側面、荒ぶる魂、また勇と言う時で表されるように前に進む力、行動力や外向性を表す。同じ神であってもこの二つの個性を持つ、2面性があるのだ。ゆえに、個人的な受験とか結婚とかといった行動に関する願いは、荒魂を祀る社に御願いしなければ意味がないのである。以前、このブログでも紹介したが、伊勢神宮の場合、本殿は和魂を祀っているので、本殿では日本や世界の平和や繁栄を願うのが筋なのだ。多分、多くの人はこの本殿で個人の御願いをしていることだろう。 個人的な御願いは、この荒祭宮で行なうのだ。知る人ぞ知る荒祭宮だ。本殿と同じ内宮にあり、本殿からも目と鼻の先ほどの地にある。 hide
2010.05.14
天満宮や天神様に牛の像が祀られているのはなぜか?菅原道真の誕生日(845年6月25日)、死去日(903年2月25日)が丑(うし)の日だった。墓所は遺言で牛車の止まった所に定められた。それが、九州の大宰府天満宮だ。 その他にも牛との縁が多い。それで、菅原道真の神使は「牛」となったのだ。天満宮では、なで牛をなでてご利益をいただこう。英
2010.05.11
古事記の天岩戸伝説から天照大神が天の岩戸にお隠れになった後、宴会のために長鳴鳥、いわゆる鶏が用意された。その泣き声で天照大神の関心を引くためである。天のうずめが裸で踊り、その鶏がコケコッコーと鳴いたあと、天照大神が岩戸から、現れ、世の中が明るくなった。その際、鶏が止まっていた木が鳥居の呼び名になったという。なるほど、鳥居は、いかにも鳥がとまる止まり木の形をしている。鳥居の語源は、色々あるようだが、私は、この説が当たっているような気がする。天岩戸のお話から、それ以後、鶏が夜明けをしらせる役割をになったという。これで、昨日のブログで紹介した谷保天満宮に多くの鶏が、放し飼いになっていた理由がわかるはずだ。英
2010.05.10
谷保天満宮ご祭神:菅原道真公、菅原道武公東京都国立市谷保5209JR南部線「谷保」駅下車、徒歩5分谷保天満宮は、谷保駅から徒歩で、国立駅からはバスで10分程の場所にある。今回は、初めての参拝であったが、谷保駅から向かった。神社の正面、鳥居の前に着くと、境内から鶏の鳴き声が聞こえてきた。動物園でもあるのか。参道を進むと、なんと境内に何羽も鳥が、放し飼いでいるのである。鶏ではなく、ウコッケイのような鳥だ。私も多くの神社を訪れているが、放し飼いの鳥を見るのは、初めてである。谷保天満宮は、東日本の天満宮では最も古く、湯島天神、亀戸天神と並び関東三天神と称されている。菅原道真公が、九州大宰府に左遷された折、第三子の道武公は、武蔵国分倍庄(現、谷保)配流された。父君、逝去に際し、尊像を刻み、鎮座したのが起こりという。この神社は、都心郊外にあり、境内に緑も多く、気持ちの良い神社である。湯島天神や亀戸天神は、学問の神様として入試祈願の受験生で賑わうが、この谷保天満宮も参拝すると、関東三天神参りで、ご利益が増すかもしれない! 受験生の諸君、お試しあれ!鶏と鳥居の関係と天満宮と牛の関係は、また、後日、ご紹介しよう。英
2010.05.09
昨日、5月5日、都下府中市の大国魂神社で例祭とくらやみ祭が行われた。大国魂神社のご祭神は、大国魂である。大国主命のことである。創建は12代景行天皇の頃であるそうだ。1900年の歴史ある古社である。右に見えるのが神木の大ケヤキ武蔵の国の総社と言われ、当時はこの府中に武蔵の国の国府が置かれていた。それで、府中という地名が残っているのである。ちなみに武蔵野国とは、今の東京都、埼玉県と神奈川県の一部を言う。5月5日は、毎年、くらやみ祭が行われる。昔は、ほんとうに夜、暗闇の中、神輿の巡行が行われていたという。現在は、午後6時からメイン行事である、8台のみこしが境内から町に繰り出す。日中は、大太鼓が境内や参道で大きな音を響かせている。この大太鼓は日本一の大きさだそうだ。参道には、ケヤキの大木が列をなしている。このケヤキは、源義家が前九年の役で東北に向かう際、当神社で勝利の祈念をし、願いどうり勝ち戦を得、そのお礼として1000本のケヤキを奉納したとか。源義家像英
2010.05.06
最近、テレビでパワースポット神社巡りの番組が増えてきた。昨日も夜の7時から神社の特番をやっていた。紹介された神社は、今田神社、来宮神社、宇佐神宮などなど。今田神社は都心ではあるが、まだ、行った事がない。最近、はやりになっているのは、例の人が自著で紹介したからだろう。浅草に行ったら、一度、参拝しに行こうと思う。来宮神社は、直近では2月に行き、このブログでも紹介した。やはり来宮神社は、有名人の崇敬者も多いようだ。番組でも境内の大楠を紹介していたが、私も行ってみて、何か大きなパワーというか尋常でない何かがあるように思われた。来宮神社は、東京からも近いので、お奨めの神社だ。大分県の宇佐神宮も5年ほど前に行っている。ここは、八幡宮の総本宮である。境内の敷地は、広大で、伊勢神宮に匹敵するかもしれない。九州では第一の古社だ。英
2010.04.30
昨日は、東京都下、羽村市のチューリップ祭りを見に行った。羽村は、初めてである。駅から、徒歩で約20分、多摩川の土手に着く。土手の桜は、終わっていたが、晴天で本当にすがすがしい景色だ。ここは、羽村の堰と呼ばれる所である。江戸時代、1653年、玉川兄弟が玉川上水を開削し、江戸までの水道を築いた場所である。そのスタート地点が、この堰なのだ。江戸の発展の礎になった歴史的な場所だ。玉川兄弟の像そこから、500m程、上流に上がった場所に阿蘇神社が鎮座している。創建は、601年推古天皇の時代。平将門が社殿を創建したという古社である。主祭神は、健巖龍命(たけいわつのみこと)である。神武天皇の皇子、神八井耳命の皇子神という。その妃が、阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)で、九州阿蘇の土地の豪族の御女であった。国土開発、家運長久、招福消除の御利益があるという。チューリップは、満開で素晴らしい眺めであった。見ごろは、今週位までか。関東では、最大級のチューリップ畑英
2010.04.19
南宮大社所在地:岐阜県垂井町、ご祭神:金山彦命南宮大社は、旧国幣大社で美濃の国の一宮だ。全国の鉱山、金属業の総本宮として、崇敬を集めている。JR東海道線、垂井駅から車で10分程だが、今回は、駅から徒歩で向かった。2,30分はかかる距離だ。駅からはバス便しかなく、タクシーもめったに来ない駅なのだ。古戦場で有名な関ヶ原の手前の駅である。楼門大社の存する南宮山は、関ヶ原の合戦の際、徳川家康が最初に布陣した山である。現在の建物は、関ヶ原の合戦で焼失し、1642年、徳川家光により再建されたものだそうだ。国の重要文化財に指定されている。ご祭神は、金山彦命(カナヤマヒコノミコト)である。古事記によるとイザナミノミコトは、火の神カグヅチを生む時に自分も焼かれて死んでしまう。その直前、苦しむイザナミの嘔吐物から生まれたのが金山彦命だ。何か汚い話だが、古事記の神様は、目や鼻や嘔吐物から生まれたという話が多いのだ。金山彦は鉱山の神様で、これはタタラという古代の製鉄の様子を表したとも言われている。それで、いまでも製鉄会社や鉱山会社の崇敬が篤いのである。「金山」であるので、金にも関係しているのか、金色の小判のお守りを売っていた。私は、以前から金投資もしていたので、そのお守りを購入した。すると、どういうわけか、その翌週(4月5日)から金の価格が上がり、最高値を更新してしまった。ご利益であったのか!? そのお守りは、縦5cm程あり、少し重いのだが、財布に入れていつも身につけている。神社の鋳物、金具などの奉納品英
2010.04.16
諏訪大社上社本宮ご祭神:建御名方神(たけみなかたのかみ) 上社前宮:八坂刀売神(やさかとめのかみ)下社春宮ご祭神:建御名方神、八坂刀売神、下社秋宮:八重事代主神(ことしろぬしのかみ)春宮の参道建御名方神は、大国主命の子であり、八坂刀売神は建御名方神の妃である。また事代主は、建御名方の兄である。以前、諏訪大社の由来については、このブログで少し書いたが、もう一度説明しよう。古事記の国譲りのお話のあらすじはこうだ。「天照大御神は大国主に国をゆずらせようと使いを出すが、使者達は大国主に寝返ってしまう。最後に送り込んだ使者のエースが、鹿島神宮に祭られているタケミカズチである。父の大国主命から任せられたタケミナカタは国譲りを拒み、戦いをいどむ。しかしながら、戦況不利でついに諏訪の地で降参してしまう。そして、諏訪の地から決して出ないと誓うのだ。」それで、諏訪大社には、タケミナカタが祀られているのだ。春宮4月11日は、御柱祭の最終日であったので、下社には多くの参拝者がみられた。地元の人達には建御名方神は、大いなる神様になっているのだ。春宮の現在の一の御柱、5月には新しい御柱が立つ 秋宮の参道 秋宮の神楽殿、この狛犬の大きさは日本一とか神楽殿の注連縄は、小ぶりであるが出雲大社の注連縄とそっくりである。やはり、大国主命の子を祀っているので同じ形式なのだろう。英 英
2010.04.13
昨日、信州、諏訪大社の御柱祭を見学した。最終日であった。御柱祭は、7年毎の天下の大祭だ。7年毎の虎と申の年に社殿の四隅にあるモミの大木を立て替える祭りを行なう。諏訪大社は、上社と下社に分かれ、諏訪市に上社本宮、茅野市に上社前宮、下諏訪に下社春宮と秋宮がある。昨日は、下社の山出しが行なわれた。山出しは、奥山で切り出した大木を曳航する行事である。そのクライマックスが、あの木落とし坂での木落としだ。斜度35度、距離100mの坂だ。テレビで見るよりも、かなりの急坂だ。木遣りの声にのって、御柱の頭が突き出る。引き止めていて綱が切られ、猛然と坂を突き進む。と言いたいところだが、昨日は、朝の小雨で坂の土が湿っていて、すべりが悪く、途中で止まってしまったり・・・。現実は、すべてがかっこ良くいくとは限らない。が、最後まで振り落とされず乗り切った者は、ヒーローになる。大観衆のため、場所取りが、困難で、坂の脇の木陰から見学。木落としの前に氏子衆が坂で、御柱を引く。坂を落ちた御柱は、ふたたび1km程の道を引かれていった。そして、5月8日、9日、10日に再び、里曳きの行事が行なわれて、フィナーレとなる。英
2010.04.12
伊奈波神社ー龍神で脚光をあびる岐阜の総鎮守ー所在地:岐阜県岐阜市伊奈波通り1-1御祭神:イニシキイリヒコノミコト(垂仁天皇の第一皇子、第十二代、景行天皇の兄)伊奈波神社は、岐阜市の稲葉山、山麓に所在する1900年の歴史を有する古社だ。稲葉山は、別名、金華山。1539年、戦国武将の斎藤道三が居城とした山である。その後、織田信長の居城となり、稲葉山城から岐阜城へと名前を改められた。標高は、329m。頂上までは、ロープウェイで3分。岐阜城最上階からは、360度の素晴らしい眺めで、長良川が流れる岐阜の町から山々まで見渡せる。織田信長も見晴らした眺めと思うと本当に感慨深い。桜咲く、すがすがしい参道さて、話を元にもどそう。鎮斎は1900年前、景行天皇の頃という。景行天皇は、あの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父である。その御陵は、奈良県桜井市にある。本殿は、正面鳥居からさ程、遠くない距離にある。旗竿の旗が風でなびくので、何か、晴れやかな、すがすがしい気持ちになる。ちょっぴり、戦国武将のような気分だ本殿この神社は、最近、若い参拝者が増えているらしい。ある神社の本で紹介されたからである。境内に湧水が流れているが、すべての気が凝結して、龍体になっているという。特に境内に鎮座している黒龍社という摂社が、人気になっている。そのお守りを買い求める若者が増えているそうだ。これは、水を制する信仰の神社でもあったため、龍神信仰があるのだと思われる。また、内政、土木、軍事などあらゆる面で活躍されたイニシキイリノミコトを祀っているので、斎藤道三や織田信長など戦国武将を助ける力となったのだろう。黒龍社組織でリーダーシップが必要な人や、重要な仕事や学業で勝負をかける時、統率力が必要な人には功徳があるかもしれない。英
2010.04.10
熱田神宮ー三種の神器のひとつの草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀る神社ー住所:名古屋市熱田区神宮1-1-1、 御祭神:熱田大神熱田神宮は、名古屋駅の南、JR東海道線、熱田駅から徒歩8分の熱田の森に鎮座している。熱田大神とは、三種の神器である草薙神剣を御霊代とする天照大神のことである。本殿への参道父である景行天皇に東征を命じられた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、ここ尾張国造のミヤズヒメをお妃に迎える。東征に際し、叔母である伊勢神宮の斉王の倭媛(ヤマトヒメ)から贈られた草薙神剣は、この尾張のミヤズヒメのもとにとどめられた。が、その後、東征から帰還の途中、三重県亀山市ノボノの地で日本武尊は病気で亡くなってしまう。ミヤズヒメは尊の御遺志を重んじ、神剣を熱田の地に祀られた。今から1900年前のことである。それで、熱田神宮に草薙神剣が祀られているのだ。神宮の神官も含め、誰もその神剣を見たことがないという秘宝なのだ。この神剣の持つエネルギーが、多くの戦国武将からの篤い信仰を得ている。織田信長は、長篠の戦いの前に社殿を修造(日本三大塀である信長塀が残っている)し、徳川家康も造営、修理をしている。人生の大きな節目や大きな目標を達成したい時に力を貸してくれる神様なのだ。伊勢神宮同様、特に国を変えたいとか世の中を変えたいという意思を持っている人は、そのパワーを頂ける神社である。弘法大師、お手植えといわれる大楠英
2010.04.09
今週の木曜日からは、4月に入る。日本では、4月が新年度になっている。欧米は、カレンダー通り1月から新年度が始まる。桜が咲く4月を新年度の始まりとした日本人の感性は素晴らしいと思う。来週からは、卒業式も終わり、入学式の季節になる。「ハレ」の日だ。このハレの日というのは、別に晴れの日という意味ではない。ハレとは、神社の祭礼や年中行事、冠婚葬祭などの儀礼が行なわれる日を指す。「ケ」はそれ以外の普段の生活を指すと言う。それで、ハレの日に着る着物を晴れ着という。「ケジメ」というのは、1年、日常の生活をして年末に大掃除をして、気持ちを改め、ケをしめるからケジメというそうだ。「ケガレ」とは、ケが枯れた状態とも。日常的なケが続くとケガレになるのである。それをハレに回復するのが、神社の祭りだ。日本人は、これまで、儀式などにより日常と非日常を区切って、そのめりはりをつけることを伝統的に行なってきた。神社の祭礼や正月の行事がそうだ。最近では、そんな習慣も失われつつある・・・・。日本の文化、伝統をもう一度、見つめなおす必要があるのでは・・・。英
2010.03.29
1865年に広重が描いた王子の「装束榎」という名所江戸百景がある。1868年が明治維新だから、幕末も幕末である。毎年、大晦日になるとこの榎に狐が集まってきて装束を整えて、王子稲荷にお参りをしたという言い伝えだ。たぶん、江戸時代には王子近辺は野っぱらで狐も多く住んでいたのだろう。現在、この榎のあった場所は、装束稲荷となっている。装束稲荷神社狐がお参りをしたという王子稲荷神社は、王子駅から徒歩で5分程の場所にある。元は、1000年程前、岸稲荷としてこの地に祀られ、その後、領主の豊島氏(豊島区の語源)が紀州の熊野神社を勧請した王子神社から地名も王子となり、王子稲荷神社と改称されたとか。境内は、台地の中腹の高台にあるが、昔は、杉の大木に囲まれ、昼なお暗く、たくさんの狐が住んでいたらしい。現在も境内にその祠が残されている。落語の「王子の狐」は、ここを舞台にしたお話だ。江戸時代には、飛鳥山の桜の花見をかねての行楽客もあり、門前には、茶店、料理屋等が数多くあったという。現在は、そのうちの一軒が、甘味屋として残っている。参拝後、この店であんみつを頂いた。英
2010.03.25
3連休の最終日から一泊で、塩原温泉に行く。この温泉に行くのは、数十年ぶりである。那須塩原駅から車で30分程だが、さすがにまだ気温は10度前後で、少し寒かった。この塩原温泉に塩原八幡宮という神社がある。塩原八幡宮は、源義家が、1058年の前9年の役の際、この地に立ち寄り、戦勝を祈願したという。ここは、逆杉で有名だ。樹齢1500年。枝が、幹から逆さにはえているように見えるので、逆杉と呼ばれている。この逆杉を写真にとると例のオーブ(精霊?)が映っていた。(人物が入っているので、このブログには他の写真を載せるが)。やはり、神社の御神木である老大木には、写ることが多いのだ。朝一番に参拝したので、他に人影はない。ただ、一匹の黒猫のお迎えがあった。鳥居をくぐり、神域に入るとどこからともなく、この猫が走ってきて、じゃれついてきた。神社にいる間、ずっとついてきた。社務所の窓もまだ、開いていない。ふと見ると張り紙があった。「この猫は、迷い猫で神社でめんどうをみています。どなたか、よろしければ飼い主になってください」とのことだった。参拝を終わり、宿にも戻ろうとしたが、私には、どうしても、黒猫が神社の守り猫のような気がして、その場を立ち去りがたかった。英
2010.03.24
昭和天皇の御陵(お墓)は、どこにあるか御存じだろうか。実は、東京都高尾の武蔵野稜が昭和天皇のお墓なのである。JR高尾駅から徒歩15分程の場所にある。ここは、あまり一般には知られていないかもしれない。私も初めての訪問であった。正面入り口の案内御陵に続く参道 (伊勢神宮の参道を彷彿させる)神社と天皇の御陵の違いは何だろうか。明治天皇のお墓である御陵は、京都府の伏見にある。明治神宮は、御魂がおまつりしてあるだけで、御遺骨が安置しているわけではないのだ。古代の天皇のお墓の多くは、古墳になっている所が多い。その最大のお墓は大阪の仁徳天皇稜か。昭和天皇のこの御陵も2000年も時が過ぎれば、未来の人は「2000年前の昭和という戦争を繰り返した時代に敗戦を乗り越え、日本の復興に力をつくした天皇がいたようだ」と言っているかもしれない。昭和天皇稜都心からこんなに近い所に、私たちの一番身近な天皇の聖地があったのだ。英
2010.03.17
巣鴨の庚申塚に猿田彦神社がある。巣鴨の高岩寺を越えて、5分程歩いた所だ。ここは、江戸時代は、中山道に面した往来の多い場所だったとか。ちいさな神社なのだが、老若男女の参拝者が多いのだ。数年前、巣鴨の地蔵通りを歩いていると、ベンチにすわっていたお爺さんが話しかけてきた。この猿田彦神社のいわれと、その御利益のことだった。この神社の信奉者が、宝くじで1等を当てたとかとの話であった。早速、お参りをした。そして、神社には社務所はないので、神社の隣にある薬局でお守りを買った。(薬局が社務所の代わりをしているのだ)そして、私も宝くじを買ってみた。すると1等ではなかったが、1万円が当たったのだ。宝くじは年末位しか買わないが、1万円が当たったのは初めてであった。先週、久しぶりに猿田彦神社にお参りをした。地蔵通りを歩いて行くと当時のベンチを見つけた。が、お爺さんはいなかった・・・。英
2010.03.16
昨日、高尾山、薬王院の火渡り祭りに行ってきた。毎年3月の第二日曜日に催されており、高尾山麓において、1万5千人以上の参拝者を集めて盛大に行われる。高尾山は、修験道(山伏)の根本道場で、災難消除、厄災消除の願いをこめて火の行が行われる。ミシュランで三ツ星の観光地として、お墨付きをもらったこともあり、多くの外国人が見学に来ていた。高尾山は、現在、真言宗だが、修験道として飯縄大権現(いづなだいごんげん)を本尊としている。日本の修験道の歴史は、古いがその話はまたの機会にしよう。英
2010.03.15
お知らせ 明日、3月14日(日)午後1時より、高尾山麓の自動車祈祷殿広場で、火渡り祭りが行なわれます。高尾山薬王院、修験道の一大イベントです。一般の人も火渡りに参加できます。私も参加する予定です。興味がある方は、行かれたら良いと思います。英案内のサイトは、以下のとおり。http://www.takaosan.or.jp/hiwatari/index.html
2010.03.13
お礼のお参り神社参拝作法で、一般的にされていないことが、あります。それは、願いがかなった時のお礼の参拝です。ほとんどの人は、正月などの初詣で、お参りをし祈願をして、お願いがかなったときでも、それで終わりではないでしょうか。本当は、その後のお礼のお参りが最も大切のようです。人間でも誰かからお礼を言われればうれしいですよね。神様も同じだと思います。これは、神道の世界だけでなく、人間の世界でも基本的な心がけでしょう。こんなちょっとしたことが、人の運・不運を分けているかもしれません。英
2010.03.12