ホーソン『完訳・緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)
ホーソン『完訳・緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)胸に赤いAの文字を付け、罪の子を抱いて処刑のさらし台に立つ女。告白と悔悛を説く青年牧師の苦悩…。厳格な規律に縛られた一七世紀ボストンの清教徒社会に起こった姦通事件を題材として人間心理の陰翳に鋭いメスを入れながら、自由とは、罪とは何かを追求した傑作。有名な序文「税関」を加え、待望の新訳で送る完全版。(「BOOK」データベースより)◎重苦しい幕開けナサニエル・ホーソンは、1804年生まれの米国の作家です。今回取り上げる『緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)は、世界的な名作として幅広く読まれています。もちろん、W.S.モームも本書について、著作『読書案内』(岩波文庫)で多くのページを割いています。『緋文字』の舞台は、17世紀初頭のアメリカ。アメリカがイギリスの植民地だった時代です。清教徒がたくさんいて、法は宗教に支配されていました。主人公のヘスター・プリンは生後三ヶ月の赤ん坊を抱いて、絞首刑台にさらし者として立たされます。彼女の胸には、姦通罪を意味する緋文字「A」がぬいつけられています。Aは姦婦の印であり、生涯それを外してはならない刑罰を与えられたのです。 町の群衆に囲まれたヘスターは、そのなかに初老の男の姿を発見します。さらし台に将来を嘱望されている、若い牧師ディムズディルが上がります。彼はヘスターに不倫相手の名前をいうようにと説きます。しかし彼女はそれをきっぱりと拒絶します。 本書の主な登場人物は、冒頭段階で出そろいます。重苦しい幕開けですが、読者は赤ん坊が誰の子どもなのかを推測しながら、先を急ぐことになります。その後獄舎に戻されたヘスターは、極度の興奮状態に陥ります。そこへ医者が呼ばれます。その男は、さきほどヘスターが絞首刑台で認めた初老の元夫・ロジャー・チリングワースだったのです。チリングワースは彼女に自分が夫であることを内密にするように伝え、不倫相手への復讐を誓います。そしてヘスターの不倫相手が、若い牧師のディムズディルであるとこと知ります。チリングワースは巧みにディムズディルに接近し、彼の主治医となります。やがてヘスターは刑期を終え、町はずれの小さな小屋に住みます。針仕事に精をだし、娘のパールとともにひっそりと暮らします。彼女は針仕事で得た報酬の一部を、貧しい人への施しとします。バールは自由奔放に育ちます。人々はパールを悪魔の子と呼びます。しかしパールは妖精のように、かわいらしい子になっています。これから先の展開については、触れないでおきます。ただし結びの文章だけは、紹介させていただきます。――黒字ニ赤キAノ文字。この部分は新潮文庫(鈴木重吉訳)では、「暗い色の紋地に、赤い文字A」となっています。そして訳者あとがきで、「暗い色はヘスターの生涯の象徴」と書いています。◎再びの絞首刑台私は本書を一度,新潮文庫で読んでいます。その後、W.S.モーム『読書案内・世界文学』(岩波文庫)の次の文章に触れて、愕然としました。――(『緋文字』を読んで)わたくし自身の読後感を申せば、本文の物語よりは、「税関」と題する序の文章のほうがおもしろく思えた。(同書P118) 序の文章を再読しようとしましたが、なんと新潮文庫にはないのです。仕方がないので、岩波文庫を買い求めて再読せざるをえませんでした。『緋文字』には、二つの深い謎があります。ヘスターはなぜ、胸の緋文字をはずさなかったのか。ヘスターは一度外したことがあります。しかし再びそれを胸につけて、一生を送ります。この理由を探りながら、読んでください。もうひとつは出獄したヘスターは、なぜ町にいつづけたのかという点です。この理由についても、注意深く読んでください。モームがいうように「序」は、明るくユーモアさえ認められる文章です。しかし本文は、硬く重々しい筆運びになっています。 読書に際して、理解しておかなければならないことがあります。――『緋文字』という小説は、キリスト教の清教徒の間にできた形式主義道徳の中に閉じこめられた人間の苦しみを描いたものである。(伊藤整『改訂文学入門』光文社文庫P84)ヘスターの苦悩は、清教徒なるがゆえのものであることを、おさえておかなければなりません。『緋文字』が単なる三角関係の物語ではない点について、次のような解説文があります。――作中の男性が精神(ハート)のディムズデールと、知性(マインド)のチリングワースにいわば分裂し、はじめから終わりまで滅ぼしあうのとは対照的に、ヘスター・プリンはアメリカの大地に根ざした強い女の原型になっている。(明快案内シリーズ『アメリカ文学』自由国民社P31)本書の構成で目を見張るのは、冒頭の絞首刑台がクライマックス場面でも用いられている点です。台に立っているのは、ヘスターとパールと若い牧師のディムズディルです。◎「A」の変化何人もの批評家が書いていますが、ヘスターの胸についている「A」の文字は、物語の進展にしたがいイメージが変化します。ここでは清水義範の文章を紹介させていただきます。――普通には「A」は姦淫(Adultery)の頭文字だろう(だがこの小説中には一回もそうは書かれていない)。それがだんだん、何でもできる有能なヘスター・プリンの可能性を表すAbleの「A」のように思えてくる。そしてついには、天使(Angel)の「A」であってもおかしくない、というぐらいになるのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P103) 前記のとおり、私は本書を2つの訳文で読みました。娘のパールはやがて幸せな結婚をし、一人になったヘスターは町はずれの小屋へと戻ってきます。この場面が心を打ちます。ホーソン『緋文字』は、絶対に読んでいただきたい名著です。山本藤光2018.02.16