|
カテゴリ:トラウマ
小さい頃の自分の持っていた 「死」のイメージは 永遠の「無」だった。 真っ暗闇の中で ただ一人 途方もなく 限りない時間を過ごすのだ。 意識だけがそこにあり 自分の体すら見えないし 触れることすらできない。 現代社会と違ってネットもない時代なので そういった「死」にまつわる 情報を自ら探すことも出来ず とりわけ小さい頃なので 人生経験も乏しく 「死」に接する機会もない。 数年間の人生において得た情報の中で 自分なりに答えを出した 「死」のイメージが 永遠の「無」だった。 言わずもがな 孤独なる永遠の「無」というものは恐ろしい。 そのため、 しばしば 自分に訪れる「死」というものを想像しては 終わらない闇というものに 頭が追いつかず くらくらするような思いを感じていた。 今の社会は 「死」が溢れている。 「死」というものに 感覚が麻痺してしまっているようにも思う。 まるで 「いつ死んでもいいように 心の準備をしておけよ」 とでも言われているようだ。 話を戻そう。 小さい頃の自分は 「死」というものに 今よりも遥かに敏感で 夜電気を消すと 「死」を想像し、 眠れなくなるほどの恐怖心を抱いていた。 そんな小さい頃の私に 決定的なトラウマを残したのが 大雪山遭難事件のニュースだ。 これは 1989年7月に 北海道の大雪山系旭岳で 倒木を積んで造られた 「SOS」の文字と人骨、遺留品が発見された事件である。 何よりも恐ろしかったのは ニュースで普通に放送されていた 後に骨と化す遭難者の 肉声がテープに録音されていた点である。 そのテープには 一音一音区切って 助けを求める悲痛な叫び声が残されていた。 浮世離れしたような 背筋が凍るような声。 慌てているような 落ち着いているような あらゆる感情がごちゃ混ぜにされたような声。 当時の私は その音声が まるで死んだ人間が発している 叫び声のように思えてしまったのだ。 そう。 私がイメージしていた 「死」のイメージと その音声が合致してしまったのだ。 私には その音声が 永遠の闇から抜け出せずに 助けを求めている 声にしか聞こえなかったのだ。 もし、 自分も死んでしまったら 暗闇の中で挙げる叫び声はきっと そのようなものなんだろう、と。 誰にも届かなくても 僅かな望みを抱いて 自分の存在を叫ぶだろう、と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.17 02:43:17
コメント(0) | コメントを書く
[トラウマ] カテゴリの最新記事
|