人生には様々な事が起こります。その人生の最も充実すべき年代には又人生ならではの軋轢に挫けそうに成る事も有ります。最近諸般の事で、我乍心乱れつつ有り多くの友人の心温まる恩情に嬉しく思う事が有りました。それと、書類の整理をして居ましたら、亡き父の遺稿が見つかりました。何者かの見えざる手に「此処にあるよ」と導かれたような念いの中、今の私と同じ頃の年代だった父が、如何に悩み苦しんでいたか新たに知る事と成りました。家族にも余り弱音を吐かない父が私への書中に吐露した事も其れ也の想いが当然有った事と思います。今の幸福な信仰生活の基盤が、父祖のどのような辛い苦闘の末に得た神縁であったかを垣間見る事が出来ます。今後の人生の信仰の参考にしたいと思います。 長男が昭和三十七年四月頃、風呂から上がって来た時家内が「右股の内側が少し腫れているんじゃないか」といいました。ちょっと判らない程度でしたが色も付かない、痛みも無い、でも変だから外科医院で診察を受けました。 五日程して大学病院から結果の通知が来たと言うので医院に行きました。 医師はしばらく時間を過してから、 「◎◎さん誠に申し難いのですがお宅の長男さんの命は三ヶ月位なんです。」 私はこの医師は何かからかっているのじゃないかと思われました。 この病気は肉腫と云う病気で、これは足首辺りに出たのなら、足の付け根からおとしても治るとは断言出来ない。 現在の医療では原因も判らない、治療法も判らない。ただ血管を伝わって病気が進むと云う誠に厄介病気です。 (現在は西洋医学でも様々な医薬、治療法が進み、完全な治療薬が出来た訳では勿論ありませんが、何の医療の手掛かりも無い時代、亡父と同じ位の年齢になった自分。父はどんなにか心細い、切ない気持ちだったろうか。) 入院中に石巻の生長の家講師桜井先生と云う、前海軍中佐の優しい立派な方が来られて話をされるのですが私(父)は仕事の事から、金の面、医療費の支払い等が頭の中をぐるぐる廻って、とてもお話を聞く気持ちになれませんでした。 息子は如何に美味しい物を食べさせても、栄養を付けさせようとしても日増しに衰弱して、欲しがるものは麻薬の注射だけでした。 昭和三十八年二月十一日、黄泉の旅に立ったのでした。二十六歳でした。 淋しい日が毎日続いて昭和四十年に妻と生長の家に入信致しました。 今にして思えば或は早く御教えを受ければ、誰より優しい素晴らしい長男を助ける事が出来たのにと思い出されるのです。 http://www33.tok2.com/home/kankyou/titi.html |