2011/04/15(金)12:49
ゆめのあと
震災から一カ月以上が経ちました。
どうにも心を結びきれない一ヶ月でした。
被災されたみなさんへお悔みやお見舞いを
申し上げることさえ、今なお無遠慮な気がしてなりません。
時間が経つにつれ、たくさんの情報がさまざまな形で流され
そのひとつひとつに食い入らないよう慣らされてしまった自分もいます。
これは、いままでに経験したことのなかった大惨事です。
そのことだけ、よくわかります。
ここは被災地ではないけれど
いつでも不安がつきまとい、体は時々”ないはずの揺れ”を感じてしまいます。
涙が流れます。
それは、今起こっていることの悲惨さにではありません。
それは、このあとどうなるんだろうという不安にでもありません。
それは、これまでの長い間、私たちは幾度となく
いかに無防備な笑顔を作ってこれたか、ということにです。
学校の先生に、牛乳屋のおじさんに、八百屋のおばちゃんに
多分銀行の窓口のお姉さんにも、となりの会社の社長にも
町の電気屋さんや、道路工事のおやじさんたち
会ったことのない政府の要人たちにさえ
私たちはどれほど、守られてきたか。
窮屈で意味のなさそうに思えた約束の中で、私たちは自由に歩き
お腹から声を出して、なんとおおらかに笑ってきたことか。
そんな”まわりの大人たち”のおけげで、平和や安心を疑っていなかった。
失ってはじめて感じることのできる、そうと気付かなかった愛に涙が出る。
そして、もうそこへは戻れなくなってしまったことに。
同じように桜が咲き、眩しい太陽をみつけることはできるけど
これからは、違うんだ。
これまでとは違う日本を生きるんだ。
甘ったれの涙を流し切り、今また強い気持ちが戻ってくる。
このさきを、どう生きてゆくのか?
必要なものの見極めが、自分のなかで音を立てて変化してゆく。
負けない。
1mmでも・・・、なんて言いたくない。
どんな荷を引きづっていようが、10cmくらいは前に進みたい。
力尽きて倒れても、10cmのその先を見据えていたい。