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カテゴリ:F1・モータースポーツ
6月19日の日記で書いていたことなのですが、何度か書き込み文を増やして更新してきたので、此処でもう一度全文をアップしなおそうと思います。
私はFOTAを支持する F1に於けるエントラントによる組織FOTAがついに独自のシリーズを立ち上げる方向に動き出した。 そういう結論を最も恐れていたのはバーニーエクレストン(FOM)とマックスモズレー(FIA)であったはずだからバーニーとマックスは此処で逆に窮地に立たされたことになるだろう。 結果的にマックス(FIA)とバーニー(FOM)側が歩み寄るしかない状況が出来るから、この先どんな展開が待っているかは私にはよく解らない。 今回の分裂騒ぎを良く考えてみよう。 基本的にFIAは現状のルールによる規制で最高グレードがF1であるとすれば、それで興行収益などを確保できるから、より新しい技術や性能を持つマシン開発競争が行われなくても、ルールで目先を変えながら進んで行けるほうが良いのだろう、彼らには優れた技術開発によって勝者が移り変わってゆく事は特に必要でない。 それよりメーカー系のエントラントが本業の業績の影響でF1からこぞって撤退してしまい閑散としたり、フェラーリだけが残ったりして参入してくる新たなプライベートエントラントでは全く歯が立たないのではF1の面白さが失われてしまい、衰退してしまうことの方が恐ろしかったのだろう・・・。 そこで、表向きはF1はコストがかかりすぎるからそこを改善すると、大義名分を持ち出して、ルールによって新規参入エントラントがそこそこ戦えるようにF1のレベルを下げることを目的としたわけで、メーカー系のエントラントがHONDAの撤退のようにF1から居なくなって行くことへの備えを始めたと理解するのが妥当だ。 要するに、最高の技術の競い合いでもあったこれまでのF1は、メーカーの巨大な資本の恩恵によって成立していたのだが、世界経済が疲弊し、マックスモズレーはHONDAの撤退にショックを受け、メーカー系のコンストラクターが次々と撤退する可能性を感じ、もぬけのからの様になって衰退する前に、F1参戦で使える金額を制限することで公平性を打ち出し、新たなエントラント呼び込み、プライベーターでも戦えるF1にすることで、テクノロジーでは明らかな後退でも金額制限付きのF1を名目上の最高グレードレースとして延命存続させて、その興行から得られる収益を継続的なものにしようと計画したのだ。 しかし、現在残っているメーカー系のエントラントやエンジンサプライヤーとしてはそれでは参戦する意味は殆ど失われてしまって、目的である、「自分達の会社の優れた技術で勝つ」と言う栄冠が無いのと同じになるし、単に興行主のためのタレントになるなど到底容認できないし、相応の興行収入さえ搾取されてメーカーの自己負担は増えるばかりの現状を変えたいというところだろう。 現在の様な不況や世界経済の流れでレース界の状況が変遷するのは摂理であるとさえ思うから、F1などのレースビジネスもその時々の世相を反映してしかるべきものだと言えるのだ。どうしても隆盛を継続したいのは興行主の思惑と言うことだ。 考えてみれば、実際にお金を使い、沢山の人を雇いレーシングカーを作って、レースをする側はエントラントであり、そのレースの運営や規則、事務処理を行う人たちは必要ではあるが、特定の団体や個人が不可欠なわけではない。 つまり、エントラントはリスクを引き受けてお金を使ってレースに出て、その引き換えに名誉や宣伝効果、賞金の分配などを得るのである。 リスクを多く引き受けるものが多くの収益を受け取る権利を有するのは資本主義社会の原則だが、FIAのバジェットキャップはメーカー系コンストラクターのエントリーの基本的目的の実現に全くと言ってよいほど配慮を欠き、興行が安定的に継続されることだけを強く意識したものだ。 しかるにFIAやFOMとは一体何なのだ?運営や組織管理は誰がやってもかまわないのだろう?エントラント側から見れば、運営組織として機能することが求められるだけでは無いか?FIAの功績として事ある度採り上げられる、F1の安全性の向上に貢献したとされる規制措置があるが、それにしてもアイルトン・セナを失うと言った重大な事故が起きてから本格化したものであり、主催者としては常識的な措置であり、ことさら功績と言うほどのことでもないと思う。あのような事故が起きる前に人々の反対を押し切って行っていたのならともかく、どんな主催者でも事件の後に取る措置としては当然と言えるものではないだろうか? マックスモズレーは巨大な資本で参入してくる自動車メーカーはFIAにとっては招かざる客であり、現在のメーカー系のエントラントが強力で主張も大きいことが気に入らず、嘗てロータスやブラバムがその覇を競っていた時代を理想視している感があり、今日の自動車メーカーは自社の宣伝のために大金をつぎ込んで参入して来るが、突然去ってゆくような身勝手な存在でもあり、そんなエントラントは自分の会社の宣伝資金でやれば良いのであり、興行収益を分配する必要性も感じていないらしい、またプライベーターがFOTAに組することは愚かなこととさえ公言していて、現在のエントラントの集まりであるFOTAと基本的な部分で全く相容れない思想があると言わねばならない。 それでも、そうした思想の違いが在るにせよ、現実にはレースの興行は他の人でも出来るし、ルールの策定もFIAが独善的に縛る理由も無いだろう、しかしエントラントは必要不可欠な存在であり、彼らエントラント無しではレースは成立しないし、当然興行も成立しない、特にメーカー系のエントラントは親会社の宣伝活動で経費を使って参戦しているとは言え、興行主にとって都合のよい大人しいタレントをボランティアのごとく、この不況下ではこれ以上薄給では続けられない状況にあるだろう。 主体たるエントラントとFIAの関係は本質的には住民と公務員の様な関係であるべきであるはずだから、公務員が住民の利益を無視し、委託された側が収益金を自由に扱い、自分達の自由に何事も決めようとし始めたら住民側はどんな反応をするか?と言うこととほぼ同じだから、早期にエントラントの集まりが結束して、中世代の王制政治の様な非民主的な組織を打ち倒し、然るべき民主的レース管理システムを構築して、独立したシリーズを作るべきであったと思う。 FIAではない組織が出来ても良いのだ、セカンドオピニオンが必要なのはどこでも同じだと思うわけで、ここらでメーカー系のエントラントはFIAのF1と決別すべき時期なのだと思える。 おそらくFIAはF1をFIAのものとして今後も継続したいが為、今後大幅な譲歩をFOTAに対して示して行かざるを得なくなり、その譲歩の一部としてマックスモズレーの辞任などを約束するようなことになって行くだろうと思うが、FOTAは騙されてはいけない!FIAとキッパリ決別し、もう一つの元凶FOMのバーニーエクレストンともこの際、絶縁しなくてはならないのだ。 レースに参加するエントラントにとって、大事な事は、採算が採れないかもしれないと言うリスクを引き受けて車を作り、レースに出ようとする意志のある人たちの権利の保護であり、人のふんどしで相撲をとるバーニーエクレストンやマックスモズレーの自由にさせるべきではないということだ。今までがあまりにもおかしすぎるだけだ。 そもそも全てのF1による興行収益が正しくエントラントに対して分配されていれば、コストがかかり過ぎとは言ってもやりくりできる範囲にあるはずで、F1の興行収益の分配を公平に行わずに自分の懐を暖めて世界的な富豪にのし上がったバーニーエクレストンのような人間の存在を許していることがむしろ問題なのだ。 つまりF1自動車レースも明らかな民主主義にすべき時期だろうと思うのだ。 FIAの独裁と、興行屋バーニーエクレストンの搾取の時代に終止符を打つことに私は賛成なので、FOTAが独立してしまえば全て問題は解決する。 FIAは意地でも4千万ポンドのバジェットキャップの枠内でどうぞ最高の技術を使わないF1というカテゴリを守って、バーニーの搾取と共に続けて行ってください! 一方FOTAには親会社の業績でコロコロと身勝手に参加したり撤退したりすることを有る程度抑制し、せめて5年ぐらいの継続的参加を契約で約束し、出来るだけ透明で多くの人々が納得できる民主的組織を作ることを期待したい。 そして・・・私は技術に制限を設けない世界最高の技術で戦う無差別級のレースが本当は見たいので、ルールも最低車重、外形サイズ、エンジン排気量、同一のタイヤ等の必要最低限で行って欲しいのだ。 経済的にも強く、あらゆる意味の戦いに勝つ、最も優れたものが勝ち残るという厳しい現実を示して見せて欲しいのであって、先進的なアイディアや技術を認めず、皆が横並びになる制限で戦う作られたハンディキャップ制の様なレースには全く興味を感じてない・・・・。 だがしかし、なんとFIAはそれを行い、そしてそれを世界最高のレースであると言おうとしているのだ。おそらく自分達の収益の安定化のためにね・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.24 01:37:45
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