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これは、とくに仏教の修行でなくても、なにかものごとを決断するとき、きまって生ずる迷いであ
ろう。 理知上の迷いを「見惑」とよび、 情意上の迷いを「修惑」または「思惑」とよぶ。 修道 有 学 (未完成者) 無 学 (完成者) 見惑の迷いは、いうならば道理の上の迷いであるから、理性的理論的なものであり、理くつを正し く理解し、道理を正しく知解すれば、ただちに了解して、その迷いはすぐに消滅する。 これに反し、修惑の迷いは情意的なものからくるものであるから、道理を聞いて理論的理性的にわ かっても、その迷いはなかなか除かれない。つまり「わかっちゃいるけどやめられないLのである。 修惑の煩悩は、無意識の意識に根ざしたものであるから、表面意識の知性がいかに理解しても、行動 にまで移すことができないのである。 見惑を除く修行を「見道Lとよび、修惑を除く修行を「修道」とよび、「見道」と「修道」のすべ ての修行を終えた聖者を、つぎの八つの段階に分ける。 よ る しゆだおん 預 流(須陀慨ともよぶ)-見道 預流果 いち らい しだごん 一 来(斯陀含ともよぶ) 一来果 ふ げん あなごん 不 還(阿那含ともよぶ) 不還果 阿羅漢道 阿羅漢果 このヽ預流.(初果)というのは、四諦の真理を完全に理解会得した境地で、ここから「聖者」の列 招 に入るのである。 つづいて修道に入り、習慣的情意的煩悩(つまり、潜在意識・深層意識における煩悩である)を徐 徐に打破する修行を積み、第二果∴来、第三果・不還とすすみ、さいごに、一切の煩悩を残りなく 断尽した第四果・阿羅漢となって、ここに仏教修行究極の位に到達するのである。 ところで、ここで興味をひかれるのは、初果の聖者である預流になるのには、理知的に四諦の理を きわめ、直感的にこれを会得すればよいので、時間的にはそう長期にわたらなくても可能であるが、 修道の修行には、非常な長期にわたる修行が必要であるとされていることである。それは、修惑をと り除くのは非常に困難であるという考えかたからきているのである。修行の段階が数多くあるのはそ のためであり、のちの大乗仏教では、その期間を、実に三祇百劫という無限にひとしい時間をあてて いるくらいである。 これは、実際的にみて永久に不可能だといっていることと解すべきであろう。それで、大乗’仏教 は、四諦と縁起の法による解脱の修行は役にたたぬとけなし、これを「小乗」ときめつけたのであ る。 それでは、大乗仏教はそこのところをどう処理したかというと、ナーガールジュナ(龍樹)の提唱 した「諸法皆空」の理論をもってこれにあてたのである。 諸法皆空-すべてが「空」であるのなら、煩悩もまた「空」である。その「空Lの理をさとりさ えしたら、煩悩も業も因縁も、すべて「空」になるではないか、としたのである。 大乗仏教経典の中心『法華経』(妙法蓮華経)の「妙法」という法は、この諸法皆空の理をさすの である。 しかし、考えてみればすぐわかる通り、諸法皆空と思ったからといって、すぐにすべてが空に なるわけではない。それを如実に会得体現するためにはたいへんな修行が必要のはずである。諸法皆 空の理を知っただけでは、それは「見道なのである。それを如実に体現するためには「修道」の修 行が必要なのだ。そこのところは頬かぶりして、修道修行のかわりに、「諸法皆空の理(妙法)を信 じさえすればそれでよいということにしたわけである。だからこの龍樹の諸法皆空の理は、およそ三 百年後に力べにつきあたり、諸法皆空仏教(つまり大乗仏教である)は行きづまってしまうのであ る。そこで、それにかわって出てくるのが唯識大乗なのだが、それらのことについてはまた後篇で述 べよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.17 15:19:54
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