いり豆 歴史談義

2008/03/23(日)22:53

伊達騒動と原田甲斐

江戸時代(6)

江戸時代には、多くのお家騒動が起こりましたが、 その中でも有名なのが、仙台の伊達騒動です。 正式には寛文事件と呼ばれています。 「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎の演目にもなり、 山本周五郎の小説「樅の木は残った」で取り上げられたことでも有名となりました。 私の場合は、かなり昔(小学生の頃)のNHK大河ドラマで見た 「樅の木は残った」のイメージが強いですが・・・。 この騒動の発端は、 伊達家3代藩主・綱宗が、吉原の遊女遊びにうつつをぬかしていたことがもとで、 隠居させられて、幼君の亀千代が藩主に就いたことに始まります。 江戸時代初期、万治3年(1660年)のこと。 その後見人として、伊達兵部宗勝(政宗の十男)と田村右京宗良(政宗の孫)が指名され、 幕府からも承認されました。 しかし、後見人となった伊達兵部は、藩政の独断専横を始めます。 藩政に対して批判したものには容赦なく誅罰を下し、兵部から処罰を受けた者の数は、 120人にも達したといいます。 続いて、幼君亀千代の毒殺未遂事件が起こり、 これも、兵部が自らが藩主になろうとして画策したものであるとも言われていました。 兵部の配下では、奉行職の国老・原田甲斐宗輔が、暗躍していました。 そうした中、兵部のやり方に反対する勢力が、反発を強めていきます。 その代表的な人物が、一門の一人、伊達安芸宗重でした。 当時、伊達安芸には新田開発に伴う、境界争いが起こっていましたが、 伊達兵部は、この領地紛争にも介入し、安芸にとって不利となる裁定を下しました。 これも、伊達兵部が、幼君の補佐と称して権力の座を濫用して行ったものでした。 伊達安芸の、兵部の専横に対する不満は日ごとに募り、 憤慨した安芸は、ついに、この境界争いを幕府に提訴することを決意します。 幕府の裁定を仰ぐとともに、後見人伊達兵部とその配下の奉行原田甲斐の横暴を 幕府に訴え出ようとしたのです。 寛文11年(1671年)。 江戸、大老・酒井雅楽頭邸にて、伊達家関係者に対する尋問が始まりました。 安芸にとって、この場は、まさに、兵部等を退け藩政を是正する最後の機会であると考えていました。 しかし、尋問終了の直後、予期せぬ出来事が起こりました。 原田甲斐が突然刃傷に及び、その場で伊達安芸は絶命してしまったのです。 原田も駆けつけてきた、酒井家の家臣に斬り伏せられ絶命。 この結果、原田甲斐の家は断絶とされ、その息子達も死罪。 田村右京は、閉門蟄居。伊達安芸については、おとがめなし。 伊達兵部は土佐(小高坂村)への流罪となりました。 ただ、伊達藩そのものの責任は、藩主がまだ幼少であるこというから不問とされ、 何とか、お家断絶という最悪の事態は免れることができました。 以上が、伊達騒動のあらまし。 しかし、この事件の真相については、良く分からないことが多いというのが実情です。 定説では、兵部派が逆臣、安芸派が忠臣とされていて、 原田甲斐は、兵部の手先として動き、酒井雅楽頭邸で狼藉を働いた極悪人と見なされてきました。 しかし、原田甲斐悪人説を否定し、原田甲斐は逆に伊達家お取りつぶしの危機を、 自らが悪人になりおおせることで、伊達家を救った忠臣であるとしたのが、 山本周五郎の小説「樅の木は残った」でした。 酒井邸の刃傷事件にまつわる経緯について、 「樅の木は残った」では・・・。 大老・酒井雅楽頭と伊達兵部の間には、兵部に伊達藩を分与するとした密約があり、 その証文を原田甲斐が入手していました。 評定の場でそれが持ち出されることを知った酒井雅楽頭は、 その証拠を隠滅するため、集まっている伊達藩の家老たちを斬殺しようとし、 さらに、それを原田甲斐が乱心の上行った事として、処理しようとしていました。 酒井家の家臣たちは、詰めの間に控えている伊達安芸・原田甲斐ら伊達藩家老に、 突然斬りかかります。 斬られて息絶え絶えになっている原田甲斐。 しかし、この時、自らの刀に血をぬりつけて、 「これは、私が一人でやったこと、甲斐が乱心して、この所業に及びました。」 と言い残してから絶命しました。 酒井雅楽頭が、密約の証拠を表ざたにならないようにするため、 甲斐の乱心という形で事をうやむやにし、 評定不可能にしようとしているという事を、甲斐は察していたのです。 また、それと引き換えに、伊達家の安泰を保証しようとしている 雅楽頭の意図がわかったため、甲斐は、それに乗ってみせたのでした・・・。 居合わせた関係者たちがみな、命を落としてしまったため、 結局、事件の真相は追求することが出来なくなってしまい、 仙台藩62万石はおとがめなしということになりました。 この事件。やはり真相ははっきりしません。 また、「樅の木は残った」も、あくまでも小説ですので、真実を描いたものではありません。 実際は、甲斐の一族は死に絶え、彼の立場を弁護するものもなかったため、 彼が悪者にされてしまったのかもしれません。 原田甲斐については、当時から、彼の人柄を慕う人が多くいて、 原田家が断絶したのちも、甲斐の追悼が秘密裏に、事件当時から行われていたといいます。 密かに葬られた甲斐の首塚の方角に寺の本尊を置き、 本尊を拝むふりをして、密かに甲斐の供養が行われていたとか。 原田家菩提寺の東陽寺では、 その後もなお、甲斐を供養するための法要が、毎年続けられているといいます。

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