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テーマ:介護・看護・喪失(5316)
カテゴリ:実家(陽気な父・明るい母・おもろい妹)
長男が生まれてしばらくした頃、父の脳梗塞が起きた。
検査の結果、それははじめての発作ではなく、脳には小さな脳梗塞の跡がたくさんあったと分かった。 それでも、父は商売を続けていた。 その頃、祖父が始めた「まちのちいさな八百屋」は父と母の努力によって「上にマンションのついたちょっとしたスーパー」になっていたのだ。 ここまでやってきたものを、簡単にやめるわけにはいかなかったのだ。 しかし私が実家に遊びに帰っていたある日の夜中、父は突然の激しい腹痛に倒れた。 母と私で救急車を呼び、そのまま入院となった。 胆石だった。 様々な検査を経て数日後、手術が行われた。 30分くらいで終わると聞かされていたその手術は、2時間経っても3時間経っても終わる様子がなく、結局7時間半の大手術となった。 父の内臓は知らない間に糖尿病に侵されていて、全ての臓器がむくみ、血管が弱り、少し触れただけでも大出血を起こす状態だったのだ。 しかも胆嚢はあるべき場所になかった。 小さい頃、盲腸が癒着したことがあり、その影響で内臓が正しい場所になかったらしい。 ようやく手術が終わってICUにいる父は、麻酔で朦朧としていた。 とにかくなにか声をかけなければと思うが、胸が詰まって言葉が出なかった。 「お父ちゃん、よう頑張ったな。」とだけ言うのが精一杯だった。 後で母から聞いた話だが、父は朦朧とした中で私の声を聞いたらしく、私たちが帰った後で、私に似ている看護士さんを見つけ、何度も「ののはな、ののはな」と呼びかけたらしい。 しかし、まだ麻酔もさめておらず、酸素マスクもつけた状態で、しかも術後の小さな声は看護士さんに聞こえるわけもなく、「あの時、『またののはなは俺に反抗しやがって、返事もしよらへん』と思ったんや。」と退院した後に母に話していたという。 その頃、もう子供もいた私は父に反抗などしていなかったから、おそらく若いころのイメージが脳裏に浮かんでいたのだろうと思う。 父は父で、うまくコミュニケーションを取れなかった時代を悔やんでいたのかもしれないと思う。 その後、両親は商売をあきらめ、母と二人三脚での闘病生活が始まった。 脳梗塞による言語障害を克服し、糖尿病を悪化させないための食事療法やダイエットの日々。 しかし、父の性格は、明らかに怒りっぽくなっていった。 突然、理不尽なことで怒鳴り始める父と、またケンカをする日々が始まった。 父が心配で、小さな子供を連れてできるだけ帰るようにしているのに、急に「帰れ!」と怒鳴られて帰らなければならないこともあった。 (3へつづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年09月15日 21時37分21秒
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