龍馬伝 蛤:はまぐり
文治元年 1864年 東京オリンピックの100年前の京都で6月5日 新撰組 池田屋を襲撃して 志士たちを なで斬り7月19日 御所=現在の京都御苑に 長州が攻め込む 孝明天皇の奪還が目的 長州藩 vs 会津藩 薩摩藩 大垣藩 桑名藩 遊撃隊 新撰組 ちょっと ここに到る 政治状況の おさらい長州は 前年の8・18政変で 京を追われていた 形勢逆転長州と与:くみする 攘夷派の公家も都を追われた 世にゆー 七卿落ち お公家さんなんで そのとき 生まれてはじめて 草鞋:わらじを履いたとかで 特別ジョートーの草鞋 密に編んだ 麻の草鞋で 紐のトコやみな 絹でできてる そんな草鞋が 霊山歴史館に展示してある ほんもんらしー長州が 御所に 攻めてきょったもっぺん世の中を 攘夷の方向に ひっくりかえそーと蛤御門の変 別の言い方やと 禁門の変 を起こしよったんですわ とくに 激戦地になったのが 西側 烏丸通りの 今出川やのーて丸太町通りに 近い南のほーの 蛤御門のあたりらしー 禁門 とは 禁裏の御門 の意味 蛤御門 と呼ばれるよーになったんは 天明の大火=1788年のときに はじめて門が開かれたんで 焼けたら口あける蛤 っちゅーことらしー 天明の大火以前は 新在家御門と呼ばれてたらしー この 蛤御門付近が激戦になった 今でも 門の梁には 弾痕が残こってるらしー ↑ こんど見に行こーっと♪ ところがですなぁ この蛤御門の変で 長州はあんじょう ボロ負けしてしもて 戦闘員3200人中 400人ほど死んでもーた 守備隊側は60人死亡 おサムライさんらのやらはったこと・・・ 長州藩は敗走するときに 藩邸に火ぃつけよったんですわ・・・ 大火事になりましてんて どんどん焼け ちゅーてね 一条から七条 御所の南から 京都駅の辺まで 丸焼け・・・ おりょう が働いてた旅籠も燃えて 失職 病弱な母 妹や弟かかえて 難渋龍馬 伏見の船宿 寺田屋 に おりょうを 周旋する 紹介して 雇てもらう 伏見 は 京の町中からゆーと だいぶに南 宇治川のほとり 酒蔵も多いトコ 川を越えたら もう宇治市ですわ 伏見は 宇治川の河川運輸でにぎおーた町 大阪へ下る船 逆に 大阪から上る 夜船 川を遡行=さかのぼるんで 引き手の人足が 岸から綱でひっぱってるんでっさかい ごっつ時間かかる けども 寝てるうちに伏見に着く これは時間が経済やと 夜船も繁盛してたらしー ここら落語で学んだ知識ですー伏見の浜 三十石でにぎおーたムカシを偲べるよーにだいぶに 整備されてるらしーし近いうちに 行ってみてこよーっと♪ さて 今日の史跡紹介は 近江屋 ですが ちょと整理しときましょ 池田屋 ← 勤皇の志士たちが 新撰組にやられた旅籠 三条木屋町のちょい西北 寺田屋 ← 伏見の船宿 女将の名が お登勢 龍馬 この船宿に おりょう を周旋 近江屋 ← 龍馬と中岡慎太郎 が殺された 醤油屋 川原町四条をちょっと上がった 西側どした いまそこは ↓6月1日撮影 サークルK になってますが この 遭難の碑 には 花が供えられてたりしてて ぼくが撮ってたら 観光客風の 歴史好きのオッチャンも 撮ったはりましたわ この6月1日 平日の火曜日でしたけども・・・ はい 歴女:レキジョのみなさまに大好評♪ はい 便乗商法♪ ↓ ↑ りょうま碗 まっこてこじゃんと 和めるきに おまさんらも 使こーてつかーさい 肩に力を 入れすぎたら いかんぜよ♪ この大ぶりな碗には とろろ を溶きこんだ雑炊が入る おりょう膳 とゆーメニューですわ 龍馬伝で ついに登場した 龍馬のよめはん お竜=おりょう が作ったであろう 土佐のもんいろいろ使こたゴチソウ の竹籠盛り ¥2940 ↑ おりょう膳は ここで食べれる 割烹 竹島 075-256-2550 武市半平太の住んでたトコから もうちょっとだけ北 木屋町御池 渡って100m東側 アイル竹島ビルの奥 川床もやったはりますわ♪ 割烹 竹島 ・ ええ これからも 毎週月曜 ええ 京都龍馬カンレンの史跡 いろいろと見せますんで・・・・ ええ 伏見のほーの龍馬カンレンも いずれは見にいきまして・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなにがしか みなさんのお心に とどきましたでしょーか? もしそー思もてくれはったら クリックたのんますー♪ ↓