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昨日、ある教会に足を運びました。 そこでの聖書からのメッセージは、 「人が人を裁くこと」についてでした。 すごく目が開かれたというか、 自分が悔い改めなくちゃいけないなぁって示されました。 自分が昔から友達に注意されていたことが やっと理解できました^^; 聖句は新約聖書 第一コリント 4:1-5からでした。 「この世の知恵」というものは すごく「人を皮肉にする」という説明から始まりました。 たとえば、仕事が見つからないと、 「仕事が見つからないだろう。これからも。 人生ってそんなもんさ。」 とか、あたかも未来を知っているかのように語ったり、 「あぁ、わかってる。これってこういうことだろう。 わかってる、こうなる。これはこうだ。」 と、「この世の知恵」は 私たちを知ったかぶらせ、 先走った判断に導くことが多いと。 このような皮肉な心の態度では しあわせや喜びを人生から締め出してしまいます。 私はよく、親友から 「Norikoは思いこみが激しい。 それはやめた方がいいよ。」と 何年も前から注意されていたけど( ̄▽ ̄;) こういうことかと、昨日はっきり分かりました。 そして、それが罪だということも。 神様は、私たちに人を裁く仕事を与えておられない。 神のみが、裁き主だから。 メッセージの中で、祈り悔い改めて 今後は気をつけようと思ったことが2点あります。 1.目に見えることがいつも真実ではない。 宣教師の方は、目に見えるもの、耳から聞こえるもの それらから人を裁いてはいけないと教えてくださいました。 なぜなら、目に見えることには限りがあり 私たちは、その「真理」まで見ることができないからと。 人の心は、分からないからと。 本当のところまで、人は見通すことはできないからと。 これは、本当だと思います。 宣教師の方の体験談では、 ある男性が救われて、新し人生を生きたいと願い 助けてくれないかと言われ、彼の家に行ったそうです。 するとその家には、ポルノの本とビデオが 散乱していたそうです。 「このような生活から解放されたい」と男性は心から願い すべてを処分すると決めたそうです。 しかし、そのすべてを処分するには 2トントラックを借りなければならなかったそうです。 そして、すべてをトラックに乗せて走りだした。 しかし、そのトラックを運転していたのが このロブ宣教師。 信号などで止まると、周りの人にジロジロ見られたそうです。 もし教会の人に見られたらどうしようかと思ったほど。 ポルノいっぱいのトラックを運転していたら 変な商売をしているのではないかと思われたと思うと。 そして、焼却場に向かうと、 なんと、そのままポイすてできないのだそうで、 「このゴミは、私に属するものです」 と署名しなければならなかったそうです。 そしたら、同行していた教会員の人が 「僕が書きます。」と言って自分の名前を書いたそうです。 自分のものではないのに。 外から見たら、どうでしょうか。 私たちは、本当のこと、真理までは理解できないのです。 人間ですもの。 本当に、胸が痛みました。 私は、外から見ただけで判断し、 人を裁いたことがあるからです。 「絶対にこうだ!彼はこうだ!」と思い込み、 そのまんま自分の判断に基づいて行動や言動に出ました。 しかし、彼の心の中には、まったく違ったものがありました。 誤解だったのです。 私の「裁き主」ぶった高慢な判断と行動は、 「私は分かっているのよ。」という態度に出て 真実でも何でもなく私の思い込みであったのにその結果、 それが彼との関係をつぶし、彼まで傷つけることとなりました。 本当に、悲しいです。 罪は、祝福ではなく、死を招くのです。 人を裁くなと神が言われる場合、 私の益にならないからだということが分かりました。 それだけでなく、私の「知る」ことの限界も再確認し 神に裁きを委ねること、へりくだることの重要性を 認識しました。 イエス・キリストのことを預言した箇所にこうあります。 この方は主を恐れることを喜び、 その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、 旧約聖書 イザヤ書 11:3 キリストは、目の見るところによって裁かれません。 その耳の聞くところによって「こうだ」と判決を下しません。 なんというレッスンでしょう。 キリストすらそうしないのであれば、 私たちはなおさらのことです。 私たちは、目で見ること、耳で聞くことによって いとも簡単に人を裁いてしまう弱い者ではないでしょうか。 神は、 正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し イザヤ書 11:4 神のみが、全貌をご存知なのです。 そして、神は、うわべだけのことではなく 真理、真実を持って裁かれるのです。 唯一、正しい裁きを下すことができるのが 神なのです。 裁きは、神に委ねること。 人はうわべを見るが、主は心を見る。 旧約聖書 サムエル記 第一 16:7 2.ある人がもし過去に悪いことをしたならば、彼らが今でも同じことをしていると決めつけて裁いてはいけない。 過ちは、繰り返される。 でも、神にあっては、そうではない。 神様は、私たちを新しくしてくださるから。 新しい人生を送ることができるから。 過去の悪い習慣から解放し、断ち切る力を与えてくださるから。 これも、私は大失敗をしました。 過去の罪でその人を心の中で裁いていました。 神は、その人をもう何年も昔に赦しているのです。 よって、この世で彼をいまだに裁いていたのは この「私」だけだったのです。 なんと、恐ろしい。 なんという罪を犯していたんだろう。 神様にすぐに裁きの罪を告白しました。 神様は、私たちをそのような目で見られないのです。 神様は、罪を告白したら赦して下さり、 すべての不義から清めてくださるのです。 またチャンスを与えてくださるのです。 新しい歩みを与えてくださるのです。 「サタン」の名の意味は、「非難する者」です。 もし自分が人を非難して、傷を突いて裁いていれば 自分はサタンと同じ行動をしていることになります。 神は、赦し、愛されるのです。 サタンはいつまでも「お前はこんなことをした あんなことをした」、と言ってその者を責めて裁くのです。 私は、神のご性質を現わしていたのではなく サタンのチームに入っていたと気付きました。 これは、神が私を痛めつけようとして示したのではなく 私を「解放」するためであると知り、感謝しました。 真理を知りなさい、真理は私たちを自由にしますと 聖書には書いてありますがその通りで、 聖書は私たちに生きる道を教えてくれるのです。 自分は悪魔の右腕ではなく、 神の右腕として、愛し、赦し、励ましていきたいと 心から願いました。 自分の口からのろいがでるのではなく、 何を口から発するのか、気をつけていきたいです。 (マタイ12:37) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。 ただ、必要なとき、 人の徳を養うのに役立つことばを話し 聞く人に恵みを与えなさい。 お互いに親切にし 心の優しい人となり 神がキリストにおいてあなたがたを赦して下さったように 互いにに赦し合いなさい。 新約聖書 エペソ人への手紙 4:29、32 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.26 11:24:01
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