♪ うぐいすの頭上で啼きて声韻の玻璃緊りして空へぬけゆく
アラブ人と二日間を共にして、草臥れて帰って来た後はまったく動かずにいた。天気も良い事だし、久し振りのウォーキングに出ることに。1日の日に図書館まで往復を歩いて以来となる。
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この時期はどこへ行っても新緑に包まれ、清々しい気分になれる美しい風景が広がっている。里山の脇道に入って、にわか詩人にでもなった気分で散策するのは良い気分だ。
このスギナの群生は独特の雰囲気をもって下草としての地位を確立している。木洩れ日のわずかな陽の光の中でひっそりと、しかし大らかに、そして満足げに濃い緑色の茎葉をばしている。その姿をまるで敬虔な営みのように思ったりしながら眺める。 いつ行っても誰もいない。入り口近くで老人が一人、四葉のクローバーを探す姿があったきりだ。静かな木々に囲まれた中で一心に四葉のクローバーを探す。太公望にも似た心境だろうか。
杜甫や李白なら何かしら詩を書きそうな、とても静かな午後だ。
犬を散歩させる人もいるらしいが時間帯がズレているのか、一度も会ったことがない。この時期が最も快適で、気温が上がるとやぶ蚊がすごくて、とてもノンビリ散策などしてはいられない。
この「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)」の木は、揖斐川周辺にもあった。
| 竹林の中に設けてあるこの散歩道。ほとんど手入れのされていない竹林の中から時どき「パン」という乾いた音が聞こえてくる。強い日差しを受けて、倒れている竹が割れる音のようだ。静かな竹林で何かを暗示するかのごとく響く音。このアクセントのようなひびきを、武満徹ならどう表現するだろうか。
そういえば、アラブ人にとって詩はとても重要なものだと言っていた。普段の会話の中にも使われるという。空の青と自然の緑、そして美しいもの(女性)その三つが重要で、生活と心の中に何時もあって支えになっているらしい。
また、アラブ地方はニュース映像で砂漠地帯しか映らないが、野菜も豊富だし果物もサクランボや無花果、ザクロやオレンジなどあって、砂漠のようなところだと思うのは大きな間違いらしい。
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ダメもとで佐布里の藤を見に行ったが、やはり時すでに遅しで、ほとんど散ってしまっていた。揖斐へ行っている間が見頃だったのかも知れない。向うの山にも山藤があちこちに咲いていたのを考えると、暖かい分こちらの方が早いだろうからもっと前だったかもしれない。
あずま屋でギターをつま弾く人が居た。連休明けの閑散とした佐布里池に、ポピュラー音楽の弦の調べがたおやかに響く。ちょっと自信が出て来たころなのだろうか。 |
揖斐地方で山菜採りが出来なかったのをウォーキング中に思い出し、ついでに野草を摘んで帰って、天ぷらでもしてやろうと思い付いた。
身近にも結構食べられるものは多い。新芽なら天ぷらにすれば大概のものは食べられそうだが、取りあえずは良く知られたものを中心に摘むことに。
ウドの新芽がやはり一番美味い。どれも美味かったが、三つ葉は油の温度が低すぎたのか、水気が多かったいせいかべちゃっとしてしまった。カラスノエンドウの莢は固くて食するには、極小さなものでないとダメのようだった。
葡萄の新芽も食べられるのを今、思い出した。次の機会に譲るとしよう。
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