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2014年03月09日
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カテゴリ:存在論
真我とは宇宙全体です。無数とも言えますが一つとも言えます。
本質は一つで存在相は無数です。

私は一人とも言えますが、全ての存在は分身であり全て友だちとも言えます。

よく宇宙旅行に行きたいと言う人が居ますが滑稽に感じます。
スペースシャトルにのったら宇宙に行けると考えて居るようです。


さて以下参照ください。同じ内容です。



一人でも人類

諦めるというのは「パンを食いたい」を諦めるのではないのです。「パンを食ったらどうなるか」を諦める。借金取りに払ったらどうなるのか、払わなかったらどうなるのか、ということを明らかに知ってしまうことを「諦める」と申します。

それを仏教では縁覚と申します。ああするとこうなる、こうするとああなるを止めること。
ある境地に行きますと自由なになります。自由になるだけではなくて、その上に‘エ’も‘イ’もあるということを知ります。もう言霊の学問が世に出ましたから望めば‘エ’と‘イ’へ行くことが出来る。

ですが、生きた仏さまを見たことがありません。仏壇の中に入っている仏様を拝むのは絵に描いた餅と同じことです。ご利益を願う人は拝めばいい。仏教に金剛般若経というのがあって、仏教をいくら信仰してもご利益はないよと書かれている。

「利益ないことが利益だ」とハッキリ書いてございます。アの境地へ行きますと、自分はちょっとはましな人間かなと思っていたら、こんな人間だったのかということが分かる。

三菱グループの創始者の岩崎弥太郎という方に「金持ちって何ですか?」と質問しましたら、稼ぐ額を言うのかと思ったら「貸しも借りもない人だ」と答えた。

私の先生は‘ア’へ行く方法を教えてくれませんでした。大概の人は聞きたくなる。「救われたい、空を知りたい」と聞くと、見事に素っ気無かった。「俺は坊主じゃない、牧師じゃない、他で聞いてくれ。」

ですが、すごいことを教えて下さいました。「‘ア’という境地は宇宙だから黙っていても宇宙にいる。ことさら宇宙を求めようとすると一生分からないよ。」

空気を掴もうとするのと同じこと。大空を見上げながら「空がない」と言っているようなものです。空が見えないのは雲がかかっているから、その雲を払えば見える。決して空を求めてはいけない。空を求めると一生迷います。

山の彼方に幸い住むという一生悲しみのない国へ行こうとして一生旅をして酒を呑んで一生を終える。追っかけないで坐ってしまえば悲しみもない。此処より他に住む処なし。人間は「ああしたい、こうしたい」、「どうしたらいいのか」、「どういうわけだろうね」が口癖です。

家内なんかはそれが流行り言葉。腰が痛かったら「どうしたんだろう」って。どうしたも、こうしたも、分かれば痛くならない。

人間はささやかな経験知で以って生きている人間を判断します。当るわけがない。この間も家内が某病院へ背骨を痛めたから入院して、退院後食欲を失ってしまって担当医に相談しましたら、「それは胃腸科へ行って下さい。」

人間の体が分かるのは神様しかいない。「どうして」ではなくて「何とかしよう」というのなら別です。「どうして」というのは「こっちにするか、あっちにするか」とまごつく。自分の心に浮かぶ考えは「全部ダメ」と言い切ってしまう。

その「ダメ」である「NO」を禅では「無」と申します。それを人間の心を虚しくするように「無になれ」と言う。やってみたらよく分かります。人間は天邪鬼に出来ている。無になろうとすればするほど、雑念、妄想がワンサワンサ。

そのワンサか出てくるものを「NO」と切ってしまいなさい。ですから、空といいますのは、万年筆を持ちながら万年筆は何処だと探すようなものなのです。

猿に玉葱を与えて一枚一枚剥いていき、最期になくなってしまうとギャアギャア喚くそうです。自分の持っている知識を切って行きますと心細くなる。今迄一生懸命知識を集めて、人に負けないよう世渡りを上手にしてきて集めたものを「NO」と切ってしまうのですから。

切れば空が見えると信じて、寂しさを堪えて信じて切れば、大きな赤ちゃんの心に帰る。生まれたての赤ちゃんはお母さんから生れますが、只管精進した赤ちゃんは母音の中に帰ることになる。

同時に空である‘ア’の内容として‘エ’と‘イ’があるということも言霊の学問で分かります。そうしますと何事も自分の経験知で見ないで大きな宇宙の心で見ますから、動かないで見ますから、動いている正体がよく分かる。自分が動いているから分からない。

「ああしよう、こうしよう」オロオロしている内は実相が見えない。動かないから‘イ’の働きである八父韻の動きがよく分かる。自分の心がどう発動しているのかが分かる。やっていくうちに自分が平々凡々な人間であることも分かってくる。

目の前に言霊の学問へ続く門が開かれて「大道無門」、大きな道に門が無い、誰でも入れます。入りますと個人的な悩みはスーッと消えてしまって、‘エ’と‘イ’からは世界をどうしようかなという気が起こってくる。

俺一人言ったところでダメだろうと思わない。自分がドッシリこう思うことは、全世界の人の腹の底まで染み渡っているということが分かってくる。

人間は一人でも人類、70億人でも人類です。自分一人が分かることは70億人が分かることです。その心を「大御心」と申します。慈悲の心であり、どうしたら世の中がよくなるかが明瞭に分かってくる。

世界人類を「ヨイショ」と担ぐ人になる。そんなに難しくない。何故ならこんな馬鹿な私でもある程度分かる。私よりもっと皆さんは分かる。

今の坊さんや牧師に惑わされてはいけません。仏様になれないなんて飛んでもないことなんですから。仏教は仏様の教えであって仏様が何だということを説いてません。りました。






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Last updated  2014年03月09日 10時01分54秒
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