リトル・ミス・サンシャイン
この映画、約一年前にシアトルにお住まいのひとみさんから紹介されたもの。ブツブツやりますって約束はしたものの、その時点で宮崎市では公開されておらず、数ヶ月後にやっと上映。さらにDVDでレンタルされたのはもう少しあとの事で、自分的にまとめようとしたけれど、まとまりがつかなかった作品でした。 いや、何が言いたいかって・・・ただ単に一年遅れたいい訳です。ひとみさん、一年も遅れてスミマセンでした。(平謝り。。。) ストーリー 映画生活より アリゾナに住む小太りなメガネ少女・オリーヴの夢は、ビューティー・クィーンになる事。コンテストのビデオを研究したり、大好きなおじいちゃん指導の元、ダンスを特訓したりと訓練に余念がない。そんな彼女の元に、朗報が舞い込む。カリフォルニアで行われる“リトル・ミス・サンシャイン”コンテストに繰り上げ参加が決定したのだ!問題だらけのフーヴァー家は、家族6人ミニバスに乗り込み、一路コンテスト会場を目指すが…?! 続きを読む・・・ オープニング。 優勝の瞬間をまねするオリーブ。そにれかぶさる父親の講演の声と映像・・・「勝ち組なるのです」。そして懸垂をする兄に、ヘロインを吸う祖父。病院に向かう母と自殺未遂で車いすに乗っている叔父。 流れる映像から、この家族が「普通の家族」でないことがわかる。それぞれに個性的で、存在感たっぷりだ。 一見まともそうに見えるのは母親だが、彼女の作る夕食はフライドチキンとサラダ。デザートはチョコバーで、祖父からは「ここにはフライドチキンしかないのか? もううんざりだ」と不評だ。 でも、「普通の家族」ではないけど、彼ら一人ひとりはきわめて普通である。ただ、一人ひとりが自分だけのベクトルを持っていて、それぞれがその方向しか向いていない。つまり「家族としての同一価値観」に染まってないだけの家庭である。でも、こんな家庭って、価値観が多様化した現代においては、どこにでもある家庭だ。 夫婦といっても、もともとは他人である。私自身、結婚した当初から「夫婦は一心同体」なんて、絶対あり得ないと思っていた。長い年月をかけてお互いの隙間を埋め、ようやくあうんの呼吸がうまれてくる。その作業が夫婦の中で日常的に営まれてこないと、こども達との関係もぎくしゃくしてくる。父と母、それぞれの異なった考え方に支配されるこどもは悲劇だ。 この映画の中ではその被害者が息子で、彼はニーチェの無言の誓いを実践することで家族と距離を置き、家族の危機に身を潜める。そしてこの誓いを破った時にハッせられた言葉が、「チクショー、クソー」と言う咆吼の後につづく「家族じゃない。離婚、自殺、破産・・・みんなそろって負け犬じゃないか」だ。 しかし、色弱では自分の希望が叶わないと知った時に発せられた言葉は、彼の本心ではない。父親へのアンチテーゼとして発せられたものに他ならないのだ。なぜなら、それまでの彼は、彼なりの方法で家族の再生を願っていた優しい心の持ち主だからだ。 傷ついた叔父に、「自殺しないで」「地獄へようこそ」とユーモアを交えて語りかける。(筆談だけど) 祖父を亡くし落ち込む母を見て、「ハグして」とオリーブを促す・・・等々。(これも筆談だけど) しかし、その彼が家族へ心を開いたのは、妹オリーブの不器用な「ハグ」によるものだった。けっして家族の隙間を埋めるのは言葉ではなかったのだ。 この「家族の隙間を埋めるのは言葉ではない」というメッセージは、この映画の随所に見ることができる。 第一が壊れた自動車を動かすための押し駆けのシーン。繰り返し出てくるが、それぞれのシーンで微妙に家族の関係に変化が表れる。 第二がコンテストのシーン。主催者から非難を浴びるオリーブの踊りに、家族は一緒に踊ることで家族の価値観を主張する。 一緒に行動することで、家族それぞれの価値観の理解と共有化が成し遂げられたのである。 それは祖父の言葉、「負け犬とは、負けるのが恐くって何もしない奴の事だ」に相通じるものなのである。 ラストシーン リトル・ミス・サンシャインコンテスト会場。 一見、グロテストにしか見えない幼い出場者たち。そんな子供達の演技を見てオリーブの出場を見合わせようとする二人。 父は、ここは地方大会のレベルと違う、オリーブが恥をかくだけだからと出場辞退を勧める。 一方息子は、こんな子供を商品化したようなくだらないコンテストに出したくないからと出場辞退を勧める。 父親の価値観はあくまで勝ち負けで、息子の価値観は内容の善し悪だ。 そんなことには関係なく、「負け犬」になりたくないとひたすら祖父の振り付けで踊るオリーブ。 聞こえてくるのは、自分の本能に忠実に生きた今はなき祖父のメッセージだ。 「勝ち負け?威厳?そんなの生きる上で関係ないよ。もっと大切なことがあるだろ」って。