カテゴリ:主に医療者向け
「安楽死」を取り上げたTVを見ていました。 私は、がんの既往を持つ方々と日常的に接していて、殆どの方はそれなりに健康を取り戻してらっしゃるけれど いわゆる「末期」の方と接する機会もあるので、【命】について考える機会は比較的多いと思います。 オペ室や救急勤務のNsのほうが、目の前で命のやり取りそのものを見ているとは思いますが 「今、普通に日常を生きている」でも「1年先、1ヶ月先、或いは明日、どうなっているかわからない」 つまり、一刻を争うよりも、冷静に生と死を見つめ、自分の遠くない未来をリアルに想定する作業を、一緒に行うことが多いと言えると思います。 「安楽死」については、色々と事情も複雑で、簡単には言及できないので敢えて触れずにおきますが 私の場合、接するのは様々なタイプ(疾患)の患者さまではなく、100%がんと言って差し支えないので、その立場からいつも感じてきたことは 【がんは、闘える病である】 【がんは、簡単には死なせてくれない】 です。 死への恐怖や絶望を思うと、早く死にたい、死んだ方がマシ(ラク)だ、と考えるのはわかる気もします。 その一方で、死にたくない、家族や大切な人たちともっと一緒に生きていたい、と考えるのも、当然の心情だと思えます。 人は、意識の上では、産まれたくて産まれてきたのではないでしょう。 でも、産まれて、生きて(生かされて)いくということは、1人1人、何らかの意味を与えられているのだと私は思っています。 ということは、死にたくて死ぬことは許されない筈です。 月並みですが、病気にせよ事故や事件にせよ、1日でも長く生きたくてもそれを許されずに生を終えていく命もあり、 それを考えると、病気などの事情はさておき、自ら命を絶つということは、命への冒涜に他なりません。 誤解を恐れず言うならば、病気の苦痛に堪え兼ねて余命を放棄することは、逃げでしかありません。 産まれてきたからには、与えられた命の灯火が消えるその瞬間まで、力の限り生を全うする義務があると考えます。 がんは、簡単には死なせてくれないからこそ、最期のその時まで、闘い抜かねばならない、否、闘い抜くことが出来るのです。 だから、そういう思いを持って、最期のその時まで、安らかに幸せに満ち足りた時間を過ごせるように そのサポートをすることが、私に「与えられた意味」なのかな、と思います。 3人に1人が罹患するようになったがんは、今や慢性疾患としての捉え方をすべきだと言われるようになりました。 がんになったこと自体を嘆くことなく、がんとどのように付き合って、より自分らしい生き方を選択すべきか、に向き合うことがとても大切で そう考えられるように、促し支えていくことも「がんリハ」の重要な役割なのだと、今なら自信を持って言えます。 死ぬことを考える前に、どう生きるかを考えることの重みを、自分なりにしっかり伝えていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年10月26日 23時50分28秒
コメント(0) | コメントを書く
[主に医療者向け] カテゴリの最新記事
|