『モスクワは東西の重要な地点』・・・2週間ぶりの日本
羽田に着陸すると、大勢の警官が居るのが、機内から見えると、隣の乗客は『誰か、この飛行機には外国の要人が乗っているんですかね?その警護でしょう』と先生に話しかけてきたので、そうかな~と思いながら、降りると、先生は、突然丁寧に捕まえられた・・・丁寧にとは、先生が犯人ではなく、密出国して、北京の平和会議に出席したと断定された、中村翫衛門さんたちについて、「参考人」として事情徴収をするようですが、彼らは慇懃無礼に先生の旅日記や、ノートを取り上げたようです。南博先生は,正木ひろし先生にお願いして、一緒に警視庁に行っていただき取り返したようです。正木先生は大きな声で、「こういう事は不届きだ!!」と若い課長を怒鳴りつけましたが、余りに大声で33年たった今でも耳に残っているようでした。当時の先生の年齢は40歳くらいです。しかしこの遠回りの帰国のおかげで、モスクワでは、スターリン最後の革命記念日に巡り合うことができたようです。赤の広場の大行進を見つめるスターリンのそばには、ぺリアが立っていたようです。プラカードの肖像画もスターリンに次いで、ぺリアが多く、彼が後続者と誰もが思っていたが、スターリンの死後、ぺリアはフルシチェフの手で、クレムリンの中で暗殺され、フルシチェフの天下になったのです。アメリカの雑誌、「ライフ」はあたかも目撃者の談話のようにぺリア暗殺を大きく報道したようです。フルシチョフ首相として私は記憶があります。先生は1953年「中国」を出版し、中国は、泥棒が居ない,蠅が居ない、酔っ払いが居ない、マージャンをやらない、アヘンを吸わないなどと云う事実を書いたのですが、いずれも、南先生が中国のちょうちん持ちと言われましたが、先生は的外れの批評に反論する事は無かったようです。当時の中国・・・私もにわかに信じがたいです。一年おきに大米欧諸国に出かけ、また、一橋大在任中の先生のゼミには、台湾・インドネシア・メキシコ・イタリアからの留学生を迎え、彼らが日本人の問題に抱いている興味や疑問を知る事で、先生の日本人研究に大きな示唆を得られたとの事、外国に出る事は、外国人と接する事が自国民の心理を得るうえで、どれほど大切かという事をしみじみと認識されたようです。空路、東京からモスクワ経由で欧州へ、モスクワはこの時すでに世界を学問で繋ぐ重要な拠点になり始めたのですが、当時の国際会議は、このモスクワで開かれ、1966年には微生物学会、国際心理学会、国際数学会も、最大の規模、ソ連は2千人、アメリカは1,500人、日本も90人参加、このマンモス学会は6千5百人以上の記録破りの人数を一つの会場でこなせるのはモスクワ大学以外になく、懇親会はクレムリン宮殿が使われ、ご存じのように、ここはバレエの大劇場でもあります。大切な事、驚くことに、この総会で,キューバの正式参加、学問上の国際交流が確認されたのです。私の疑問は、一体今のロシアのトップは何を考えているのでしょうか、理解に苦しみます。やはり、社会環境が人を育てるので、幼少期からの憧れのスパイ、KGB志願,しかも東ドイツのドレスデン…東西の壁崩壊、そしてソ連の崩壊…人間が崩壊しなければ良いのですが、両国の人々の事、心配です。