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カテゴリ:雑学
地図でサハラ砂漠を見てみると、モロッコの国境線に奇妙な点が見つかるのがわかります。
他の国境線は実線で描かれているのに、サハラ砂漠の西部の国境線は破線で描かれているのです。 今回は、この「破線」の内側にあるものはいったい何なのかを書こうと思います。 サハラ砂漠の点線の内側には、実は「サハラ・アラブ民主共和国」という「独立国」があるのです。 しかし、日本では「サハラ・アラブ民主共和国」といわれても知らない方も多いかもしれません。 理由は、「日本政府は、この国を承認していないから」です。 元々、西サハラ地方は1886年からスペインに占領されて、、モロッコ(1956年)モーリタニア(1960年)の独立後も植民地のままでいました。 スペインは他のヨーロッパ諸国と比べて経済発展が遅かったので、アフリカの植民地を手放せなかったのです。 しかし、1975年にスペインが撤退し、西サハラ地方も独立できるかと思われました。 ところが、スペインは撤退時に、以下のような協定を結んでしまったのです。 「西サハラ地方は、モーリタニアとモロッコに併合する」と。 独立を待ち望んでいた人たちが、こんな協定を押し付けられて納得できるわけがありませんでした。 そして、「ポリサリオ戦線」という組織を作り、1976年に「サハラ・アラブ民主共和国」という国を作ってしまったのです。 もちろん、モーリタニアもモロッコもこんな独立宣言を認めるわけがなく、たちまち両者との紛争が勃発しました。 ポリサリオ戦線は、アルジェリアの支援を受けてこれらの国と戦い、モーリタニアとは1979年に和平を結んだのです。 しかし、モロッコとの紛争は長期化して、1991年に国連の仲介で和平が結ばれました。 これで、「サハラ・アラブ民主共和国」は晴れて独立国家になるはずでした。 ところが、国連は西サハラ地方の人に対して、「モロッコに併合するか、独立するか」の住民投票を行わせようとしました。 しかし、西サハラ地方は遊牧民が多く、その上広い砂漠なので有権者の特定が難しかったのです。 そのため、この住民投票は20年近く経った今でも行われておらず、西サハラの所属は未定のままです。 「サハラ・アラブ民主共和国」は、モーリタニアを初めとするアフリカ諸国と南米諸国の間で承認されています。 国連では認められていませんが、アフリカ連合(AU)には加盟しています。 ところが、モロッコは「西サハラの支配権」を盾にして「サハラ・アラブ民主共和国」を認めていないのです。 これに対し、アフリカ連合(AU)は、モロッコの西サハラ支配権を認めなかったので、モロッコはアフリカ連合を脱退してしまいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.13 08:38:12
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