カテゴリ:ヒジリ地名図鑑
泉 鏡花 石川近代文学全集・1巻より 鳥 化 初卯(はつう)の日、母様が腰元を二人連れて、市(まち)の卯辰(うたつ)の方の天神様へお参んなすって、晩方帰っていらっしゃった。ちょうど川向うの、いま猿の居る処で、堤防(どて)の上のあの柳の切株に腰をかけて猿のひかえ綱を握ったなり、俯向(うつむ)いて、小さくなって、肩で呼吸(いき)をしていたのがその猿廻のじいさんであった。 大方今の紅雀のその姉さんだの、頬白のその兄さんだのであったろうと思われる。男だの、女だの、七八人寄って、たかって、猿にからかって、きゃあきゃあいわせて、わあわあ笑って、手を拍(う)って、喝采(かっさい)して、おもしろがって、おかしがって、散々(さんざ)慰(なぐさ)んで、そら菓子をやるワ、蜜柑(みかん)を投げろ、餅(もち)をたべさすわって、皆(みんな)でどっさり猿に御馳走(ごちそう)をして、暗くなるとどやどやいっちまったんだ。で、じいさんをいたわってやったものは、ただの一人(にん)もなかったといいます。 あわれだとお思いなすって、母様がお銭(あし)を恵んで、肩掛(ショオル)を着せておやんなすったら、じいさん涙を落して拝んで喜びましたって、そうして、 (ああ、奥様、私(わたくし)は獣(けだもの)になりとうございます。あいら、皆(みんな)畜生で、この猿めが夥間(なかま)でござりましょう。それで、手前達の同類にものをくわせながら、人間一疋(ぴき)の私(わたくし)には目を懸けぬのでござります。)とそういってあたりを睨(にら)んだ、恐らくこのじいさんなら分るであろう、いや、分るまでもない、人が獣(けだもの)であることをいわないでも知っていようと、そういって、母様がお聞かせなすった。 うまいこと知ってるな、じいさん。じいさんと母様と私と三人だ。その時じいさんがそのまんまで控綱(ひかえづな)をそこン処(とこ)の棒杭(ぼうぐい)に縛りッ放しにして猿をうっちゃって行(ゆ)こうとしたので、供の女中が口を出して、どうするつもりだって聞いた。母様もまた傍(そば)からまあ棄児(すてご)にしては可哀相でないかッて、お聞きなすったら、じいさんにやにやと笑ったそうで、 (はい、いえ、大丈夫でござります。人間をこうやっといたら、餓(う)えも凍(こご)えもしようけれど、獣(けだもの)でござりますから今に長い目で御覧(ごろう)じまし、此奴(こいつ)はもう決してひもじい目に逢うことはござりませぬから。) とそういって、かさねがさね恩を謝して、分れてどこへか行っちまいましたッて。 果して猿は餓えないでいる。もう今ではよっぽどの年紀(とし)であろう。すりゃ、猿のじいさんだ。道理で、功を経た、ものの分ったような、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をしているんだ。見える見える、雨の中にちょこなんと坐っているのが手に取るように窓から見えるワ。 泉 鏡花 石川近代文学全集・1巻より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 16, 2008 04:34:10 PM
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