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到達できるとは思えないような何かを探求するのが、好きである。 できるならば、ゆっくりと楽しみながら探求し続けられたら、一層幸福なのでは?と思っている。 しかしながら、今までの人生を眠りながら生きてきたような私ゆえ、探求を急いで空回りということも少なくない。 むやみに急いでも無駄であることに気付いているなら、むやみなことはやめようよ、と自分に話すのだが(苦笑)。 いい機会だし、やめよ。
それらを体得するには? それらを実践するには? ・・・・それでも、ともかく楽しんでいる。 私には不可能だろうと思うのに、探し求めているもの。 それが、完全な思考能力、判断力、行動力を持つということかも知れないし、違っているかもしれない。 わからないのだ。 完全どころか、欠点だらけ人間が、少しでも善くなろうとするのだからさぞかし最初の一歩は簡単そうなのだが、そんなことはない。 何が難しいかと言われてもそれも答えることができないのである。 話は変わるが、最近こんなことに気がついてふっと気持ちが軽くなった。 それは「誰かを嫌いになる自分」を受け入れ、自覚し、認めたということ。 私という人間が誰かを嫌うことがあるなんてことを認められない私、だった。 それゆえ今度こそ、いつかは万人をも心のそこから受け入れられる人間に近づきたいと思い、願い、そうなろうとすることはきっとやめられない。 どんな人も、善くも悪くも変化を続けているだろうことは言うまでもないが。 ソポクレス著、藤沢令夫訳『オイディプス王』読了。 王妃イオカステの「できるだけその時々の成り行きにまかせて生きるのが最上の分別と申すもの」(p.76)という言葉が心から離れない。 「成り行きにまかせて生きる」ということを、もっと具体的に知りたいが。 成り行きにまかせるということは、実は非常に難しいことなのではないだろうか。 その時々の成り行きを瞬時に判断し、行動するということが可能だろうか。 にもかかわらず、何らの因果関係なしに良かれと思ってしたことがすべて最悪の事実となるような運命に曹禺することはオイディプスだけでなく、私の人生にも大小の違いはあってもきっとある。 そんなことを知っていなくて良かったと思うのか、知ろうとするのか。 私なら後者を選ぶだろうな。 「オイディプス王」という物語、1度読んだだけではその深淵に足を踏み入れることができない。 長女、ここ2、3日は目覚まし時計のベルで起床。 次女は風邪。 春休みに発熱してくれて感謝する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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