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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.02.14
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カテゴリ:ヒラカワの日常
ラジオカフェのサイトが大分充実してきた。
http://www.radio-cafe.co.jp/messages/
上野茂都さんが、独特の語感のメッセージを寄せてくれている。
三遊亭遊雀さんの「語り口」にも、ほろりとさせられる。
小池昌代さんの「ラジオのなかの、なめらかな闇」は、詩人はこのように
言葉を重ねてゆく人のことなのかと思わせてくれる。
神田茜さんのせつない漫画。
大友浩さんの背筋の伸びた真摯な言葉。
そして、ウチダくんの読ませる哲学者としての芸。
みなさん、ありがとうございます。

さて、私の方は、このところ、
『株式会社という病』の最後の山場を登攀している。
もちろん、せっせと家族を養うためのビジネスにも怠りない。
空き時間を見つけては、書き綴っているのである。
しかし、これが、難所続きで、五里霧中。
絡み合う草に足をとられて、
何度か引き返そうかと思ったり、
最後には、匍匐前進で行くしかないかと観念したりで、
やっとこさ、八合目に辿り着く。

「まえがき」も徐々に書き進めており、
その一端をここに、添付してみようと思う。
こんな本を書いているのですといった意味である。
そうです。予告編です。

以下、「まえがき」の部分を添付。

私は、ビジネスの現場で三十年間、働いてきて、多くの疑問に逢着してきたが、そのうちのいくつかはビジネスの現場だけでは解決できない種類の問題であると思っていた。たとえば、ビジネスとは何かという問いに対する答えは、ビジネスの現場には埋まってはいない。そのような問いは、それほど多くはないのだが、いくつかは並べられる。交換とは何か。商品とは何か。働くとはどういうことか。会社とは何か。

これらは、いずれも原理的な問いであり、ビジネスの現場にはなじまない。現場とはそもそもこのような原理的な問いを拒むところに営まれている。このような原理的な問いが終わったところから、あるいはそれを一旦括弧に入れて営まれるのが現場というものだろう。どんな複雑な思想もただひとつの結果としてしか実現できない。それが、遂行的であるということの意味である。

ビジネスの現場に関して言うなら、一円でも多くの売上げを上げること、同時に一円でもコストを削減すること、一日でも早く仕事を仕上げること、よい商品をつくって、ひとりでも多くの顧客を獲得することなどが、枢要な課題であり、それ以外には本質的な課題などはないといってもよいと思う。マーケットシェアを奪うための戦略、社内のコミュニケーションを円滑にするための仕掛け、競争優位を確保する戦術、改善のための方策。こういったものは、畢竟するところ、全ては上述のビジネスの本来的課題を解決するための手段に過ぎないだろう。ビジネスの土俵から外れたところでどんな知見を披露したところで、それは気の効いた箴言にはなっても、商売上の利益には何ひとつ寄与することはないのである。私自身にしても、企画書を書くとき、あるいは新規事業のコンサルティングをしているとき、またラインの生産性向上に関して考えているときに、原理的な問いとは無縁のところで、ひたすら業務の実効性だけを念頭に置いて仕事をしているし、そうすべきであると思っている。

原理的な問いが照準している時間はほとんど無限大だが、遂行的な課題に要請されている時間はほとんどの場合は限定的であり、緊急性を有している。これを取り違えると、現場ははた迷惑な困った問題を抱え込むことになるだろうし、原理的な問いも意味を失う。私は、そのことをわきまえないほど頓馬ではないつもりである。しかし、現場での辛艱(しんかん)がなければ本書を書くこともまたなかったのも事実である。
私の前作を評して、具体性に欠けるとか、実際の役に立たないという評言があったけれど、それは「おっしゃるとおり」という他はないのである。それ故、かような批判に対しては弁解するつもりはない。ただ、注意深くお読みいただければ、そのことは最初からおことわりしていたはずである。

その意味では、本書もまた具体的なビジネス上の諸問題は扱わないだろうし、実際の役に立つようなハウ・ツウが書かれることもないだろう。(本音を言わせていただければ、即戦力として実際の現場で役に立つノウ・ハウなどというものは誰によっても書かれたためしはない。もし、その作者がビジネスに長けた経済合理主義者ならば、「必勝の要諦」などというものは秘匿してこそ価値があることを知っているはずだからである。もとより私は競馬の予想屋でもなければ、スピリチュアル・カウンセラーではないのである。)
では、何のために、ビジネスの現場では糞の役にも立たない本を書くのかと問われるであろう。

その理由は前述したとおりである。ビジネス上の問題のいくつかは、ビジネスの現場では解決できない。そして、そういった問題について直接応えてくれるビジネス書が書店には並べられていない。この二つの理由によって、私は、私自身が読んでみたい、ビジネスの原理論とでもいうようなものを書いてみたいと思ったのである。別の言い方をするなら、人間は合理的であろうとして、何故、非合理的な行動をとるのかについて私自身が知りたかったからである。あるいは、非合理極まりない人間という存在にも拘らず、どうして知性は合理性に惹き付けられるのかといってもよい。

何故ビジネス上の問題のいくつかは、ビジネスの現場では解決できないのか。
この問いには、簡単にお答えすることができない。いや、それに答えるのが本書のテーマでもあるのだ。労働、創造、交換、交流といった要素で構成されているビジネスは、そのどれひとつを欠いても人間が人間であることを説明できないほど人間的な行為である。だから、前作で、わたしは「人間がビジネスをするのではなく、ビジネスをするのが人間である」と書いたのである。しかし、ここで言う「ビジネスをする人間」は、上司の顔色を伺い、株価に一喜一憂し、取引先と交渉し、コスト削減や売上げ確保に血道を上げている「現場の人間」とは明らかに違った顔つきをしている。住んでいる世界が違うように、原理的な人間と現実的な人間は隔離されたところで生きているように見える。
しかし、会社に通い、家庭を営み、自分自身の心理と葛藤しているといった、どこにでもいる生身の人間について考えようとするならば、「原理」と「現実」との間で引き裂かれるか、あるいはこれらのどちらからも影響を受けている存在について考えないわけにはいかない。重要なのは、ひとりの生身の人間の中に、現実的なものと原理的なものが同時に存在しているということなのである。同じことだが、現実的なことは必ずしも、本質や人間の原理といったものを直接には反映しているわけではないということである。人間の個人の意図が予期せぬ結果を招来するように、人間的な本質もまた、現実的な場面では、不可解な行動として表現される場合が多いのである。

ひとが、ビジネスの現場というとき、原理的な人間の方は見えてはいないか、あえて見ないようにしている。しかし、見えていないということと、無いということはまったく別のことである。
ビジネス上の問題で解決不能のいくつかの問題とは、解決する必要がない問題なのではなく、解決の手がかりが隠蔽されているような問題なのであると私は思う。
ビジネスの現場は、原理的な問いを避けるようなところで営まれていると書いた。そして、まさにそのことが、ビジネスの解きがたい問題を生んでいるのである。
唐突に聞こえるかもしれないが、この問題の難しさは、たとえばオウム真理教の事件を考える難しさと、同じ難しさをもった問題である。
最初は小さなカルト集団に過ぎなかった教団が、次第に力をつけ、ついには地下鉄サリン事件を起こすに至る。めったに起こることのない事件ではあったが、同種の事案が過去になかったわけではない。私たちを戦慄させたのは、この教団の中に、有能な科学者、医者、弁護士といったものたちが含まれており、それぞれの分野の常識からすれば非合理的かつ法外な犯罪に、いともやすやすと手を貸していたということである。科学者として有能であること、医者として患者を思いやること、法曹家として司法に精通していることと、児戯のような理論によって導かれた犯罪思想がどうしても結びつかないのである。科学的、合理的な世界の住人が、どうして非合理極まりないカルトに染まり、合理性の見出せないような犯罪者になっていったのか。

なぜ、どうして。普通に生活していれば、世の羨望を集めるほどの知性とキャリアをあわせ持ったものが、詐欺師にひっかかって無差別的な殺人にまで手を貸してしまうのか。ここが、どうしてもよくわからないところであった。世の多くの評論家は、かれらは世間の荒波を潜っていないお坊ちゃんであり、専門馬鹿だから詐欺師に簡単に騙されてしまったのだと断じていたと思う。
しかし、私はかれらが詐欺師の不合理な説教にそそのかされて、洗脳され、犯罪を犯したのだというふうには考えなかった。あるいは、かれらには最初から、詐術にひかかる素養があったのだとも考えなかった。確かに、そういうこともあるかもしれない。しかし、もし、かれらが、浮世の労苦について経験が乏しく、専門分野以外のところではただのお坊ちゃんであり、人の世の理を知らぬがゆえに犯罪を犯したのだという風にこの事件を総括するとしたら、それは思想というものの敗北ではないかと思ったのである。
思想が思想足りうる条件とは何か。それは、どのような問題にも明確に答えうるような処方を持っていることにあるのではなく、この世の中に生起するさまざまな問題を、特殊な人間によって、特殊な状況のもとで引き起こされたものだといった対蹠的、診断的な処理をしないということであると私は思っている。対蹠的、診断的な処方は、個別遂行的な課題には何らかの効用があるだろうが、習慣を超え、言葉を超え、思考の枠組みそのものを超えて、人性に爪跡を残すことはできない。それは問題を発見したり、解決したりしたのではなく、ただ整理したに過ぎないからだ。思想が思想足りうるためには、いかに特殊な事象に見えようが、そこから人間全体の問題に繋がる普遍性を取り出せるかどうかということであり、そこにこそ思考というものの全重量がかかっている。

オウムの事件を、かれら犯罪者の個性や、教祖の教理の欠陥にもとめている限りは、人間というものが何故かくも馬鹿馬鹿しく、残酷な行為に踏み出せるのかという不思議に迫ることはできないのである。
 話が大仰になってしまったが、ビジネスの解きがたい問題に、どのように向き合ったらよいのかということについて私はこのように考えてきたのである。
この間、矢継ぎばやに起こったビジネス上の事件、アメリカにおけるエンロンの経営者による粉飾、日本におけるライブドアの問題、村上ファンドの問題、さらには雪印乳業や不二家といった名門企業の不祥事を考えるにあたっても、それが特殊な経営者によって引き起こされた、特殊な事情の下での出来事であるというように考えていては、ことの本質を見失うことになるだろう。

それらの事件は起こるべくして起こったのである。
会社と係わって生活していれば、誰もが逢着し、誰もがそこに巻き込まれ、誰もが経済犯として収監される可能性がある。複数の選択肢がある中で、私たちは自分でも判然とはしない原因や、偶然の組み合わせによって、ただ一つの結果へと押しやられる。これをさしあたり、機縁ということばで表現するならば、会社とは、私たちにどのような機縁を与える場所なのか。私たちはその機縁の中で何が見えなくなって、何処に向かって行動しているのか。その秘密にすこしでも迫れないのであれば、本書を書く意味もまたないのである。






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最終更新日  2007.02.15 12:41:49
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