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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.05.03
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カテゴリ:ヒラカワの日常
少しずつ声が戻ってきている。
まだ、咳は出るのだが、この気候とともに
連休が終わる頃には全快するのだろう。
体調が万全なときには、もう休みはないのである。
♪それが浮世というものさ。

憲法記念日ということで
新聞は、世論調査を載せ、識者の鼎談や、インタビューが
紙面を賑わせている。
毎日新聞の調査によれば、
「何らかの9条改正」を容認する人が59%になったということである。
二年半前の調査では、変えるべきだが30%だったそうだから、
世論は、だいぶ改憲へ傾いたというべきなのかもしれない。
自分の憲法に対する考え方は『9条どうでしょう』や
朝日新聞の『声』で公表しているので、これ以上付け加えたいことはない。
俺は憲法を自ら書きうるほどの、見識と覚悟を日本人が持ち得ればいいと
思っている。

でも、わずか三年足らずで、護憲から改憲へ変わる世論とは何なのか。
何がかれらをそうさせたのか。
連休は、海外がいいか、国内がいいかといった選択ではない。
それなら、「最近はドバイが人気だから」とか、
「やはりおとなの休日は湯河原あたりの隠れ宿」でとか
選択は揺れ動くだろう。
しかし、この度の問題は
国家の最も基本的な骨格に関する決め事である。
世界の軍事情勢や、日本の国内事情がこの三年で大きく変わったわけではない。
中東はそれ以前からずっと不安定であったし、北朝鮮が危険な独裁国家であることは変わりがない。確かにアメリカの政治的なヘゲモニーは、イラク戦争の失敗によって、大きなダメージを受けた。しかし、そのことをもって、9条を変えるべきだという積極的な理由にはならないだろう。
では何が変わったのか。
変わったのは空気である。(それ以外の理由があるだろうか)
憲法を変えたっていいじゃないかという空気が支配的になってきたのではない。
護憲を語る言葉が変質してしまったことに気がつかずに
なお語られる冷戦時の護憲論や平和論が風化したということではないのか。
理想の最大の敵は、現実ではない。理想そのものが、それを有する共同体の中で風化していくことである。

六十年前のこの日、
その経緯がどのようなものであるかは措くとしても
日本人は、武装を解除し、以後国際問題の解決に武力を使わないという
理想を掲げた。(戦争そのものを否定するという大胆な理想である)
敗戦で呆然自失している日本人にとって憲法の言葉は干天の慈雨のように
ありがたく、崇高な響きを持っていたと思う。
この憲法と日米安全保障条約によって、
長く続く冷戦期の中で、膨大な軍事コストを免れた日本は
稀有の経済発展をとげることができた。
だから憲法はありがたい存在であった。しかし、いつかこれが、
平均的な日本人にとっては立派過ぎる父親のような鬱陶しい存在になるかもしれない危険性も併せ持っていた。(いつまでも親の七光りでもない)
(そんなものなくたって、やってゆける)

あまりに理想的な憲法を押し付けると、日本人はすぐにこれを改憲し
再武装するような憲法に書き換える恐れがあるというケーディスの心配は、
六十年たって現実味を帯びてきたのである。

しかし、戦後六十年間、日本人は改憲、再武装という方向へは向かわなかった。
日本人は、憲法という理想を神棚に奉ったまま、政治的な決断をぜずに、経済発展に
全力を尽くしてきたのである。経済には義もなければ、政治的な潔癖もない。損得があるだけである。そうやって発展してきた日本人のどこかに、うしろめたさが無かったわけではない。
現実的な利という観点に立つならば、今でも憲法はその効力を失ってはいないと思う。しかし、それは本来日本人が期待していなかった副産物のようなものであった。

憲法を自分たちの手で書き換えたい。世界の紛争解決に立ち上がりたい。
こういった自立や、正義の実現への欲求は、
自己決定、自己責任というワーディングとともに流入してきた
グローバル資本主義の思想と無関係ではないだろう。
消費資本主義の最先端を走り続けてきた日本人は、
戦後このかた政治的な決断というものをまったくしてこなかった。
いや、本当は9条と自衛隊のねじれを現実の政治の中で、一方を神殿に奉り、一方を現場の処理に徴用するという高度な決断をし続けてきたのである。
この知恵もまた、経済的な人間が考え出した高度な戦略だったといえるかもしれない。

しかし、商人としての日本人もまた、この数年で大きく変節したのである。かつては、経済活動をするということは、長い忍従の期間を経て価値を作り出してゆくといった生産共同体的なエートスを生きるということであった。しかし、現在多くの日本人の心性を彩るのは、生産者としてのエートスではなく、消費者マインドといったものであり、それは内実よりは表面、長期的な視野よりは短期的な流行、長持ちさせるよりは使い捨てといった価値観が優勢な空気感である。
この消費者日本人にとって、憲法とはどのようなものになっていったか。
ひょっとしたら、それは時代遅れの聖人君子の言葉のようなものである。
そもそも、消費の対象としてなじみの悪い時代遅れの異物のようでもある。

憲法が日本の国情から乖離したというのは、嘘である。述べたように、世界情勢も、国情もそれほど大きく変わったわけではない。むしろ、日本人の言語観が、憲法に記されたような深甚な理想から離れていったというべきだろう。(深甚で迂遠な理想など、何の役にも立ちはしない。)理想という言葉自体が、もはやネガティブな意味しかもち得なくなった死語なのである。

どんな立派な憲法といえども、その国の人々の思想や理念以上のものを実現することはできない。国家もまた、その国民の民度以上の憲法を持ち続けることに耐えられないということである。

もし、そういうことなら、この度の調査結果には物悲しいものがある。





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最終更新日  2007.05.03 16:29:54
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