カテゴリ:民話
前回では 伯耆地方に伝わる民話「藤内狐と尻焼川」をUPしました。
ついでに、もう少し続けさせて下さい 戸上山の麓に住む鍛冶屋の爺さんに懲らしめられた悪戯「藤内狐」は近くの法勝寺川に飛び込んでメロメロになって戸上山に逃げこんだ。 その後、法勝寺川は「尻焼川」と呼ぶようになった。 ここがメインなのですが・・・・お話はそれから少し逸れます。 ーーーーーーーーーーーーーー <余話1>米川に感謝! 戦国の世が去った江戸時代は新田開発、治山治水工事が全国的に行われた時代です。 この地にも江戸時代に終点の境港20kmまで農業用水路が完成しました。 この川は米村所平の功績を讃え「米川」と称し主に農業用水を確保する重要な用水でありました。 弓浜半島は太古から日野川からの沖積平野?で、すべてが砂地で出来上がっており稲作の出来ない、甘藷等がかろうじて栽培された程度で米作なんて「夢のまた夢」であった。 水路の完成は住民の永年の悲願であったに相違ありません。その恩恵で田畑を潤し集落生活も安定したかは想像に固くはありません ーーーーーーーーーーーーー 戦前、戦後を通じて、この用水路に関わる弓浜部の児童生徒にとっては社会科見学の拠点となりました。 新学期のの季節になると、生徒たちは学校揃ってこの地に遠足に出かけます 現地に到着して米川取水口を見学して記念碑に向かいます <米川取水口>昭和50年代に大改修となりました この地は日野川、法勝寺川の共同土手です、 先生はこの現場に来ると途端に顔つきも変わり威厳ある教育者となりました。碑文の一部を紹介し <米川完成記念碑>山陰自動車建設で200mほど上流に移転となりました 先生「諸君、君たちの腕を高く揚げてみよ!」 生徒「・・・・・」 先生「お前たち命の源、血の一滴はこの頭首口である!!」 と声高らかに噴いて 先人の偉業を伝えたという。 <蛇足ながら>これと一緒に「藤内狐の民話」も聞いたのでしょうかね? ーーーーーーーーーーーー <余話2>藤内さんのたたりだ・・・・ この放水路(米川)が戸上観音寺地区内分断して流れているのです。御覧の長さ約8m弱の橋が架かっています。 <米川放水路>戸上地区内を4月~9月まで流れます 危ないですね・・・ 対岸の両家を繋ぐ2人が並行してやっと通る小さな通用橋なので過去においては、悲しい幼児の転落事故も数件発生したといいます。 村人は「きっとあの藤内さんのたたりだ・・・」と その後、戸上山に稲荷神社を祀って丁重にお慰めしているというのです。 <藤内稲荷神社入り口>駐車場から徒歩10分 <藤内さん>祠の傍には藤内さんの石像が・・・ 時代の推移とともに種々の工事も絶え間なく行われて今ではあの「人里寂しい戸上山」の面影はほとんどありませんがこの民話を知る工事関係者は工事の起工式には現在でも「藤内稲荷神社」に参拝し、工事の無事故祈念する習慣になっているのだそうです。 この話も生前の母から聞いた話です。 久し振りにお参りに出かけてきました。自宅から車で10分程度のところです <藤内稲荷神社>御供は油揚げかと思えばワンカップでした(笑) なぜ、この狐を藤内狐(または藤内さん)とよんだのかは最近になってやっと解りました。 それは次回とします。 お付き合いありがとうございまっした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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